2007年8月13日 (月)

大学の授業改善5

 文部科学省は、大学においても教員の授業のやり方に関する研修を行うような方向を目指しているようだが、そして、文部科学省のことだから、それを強制するのだろうが、実際のところ非常に難しいと思われる。難しいという理由は単純で、形式的なことならいざ知らず、誰が大学の授業についての研修の指導をするのかという問題がある。およそ大学の教師で、他の教師に授業のやり方を指導する気持ちになるような人は、かえってその授業が学生に支持されているか疑問だ。東海大学のグループが書いた、「授業が変われば大学は変わる」という本があるが、この本も授業のやり方についての具体的な提言があるわけではなく、学生による授業評価を行い、それを公表し、教員評価とすることで待遇に結びつけるという主張をしているだけである。そうすれば、教授たちも一生懸命授業を行い、悪い点を治していくだろうという、外からの飴と笞の政策の提言をしているたけである。
 大学の授業というのは、教師たちの「研究」の上にたった、まず内容ありきというものなので、方法研究をすることは非常に難しいし、また、他人が方法について指導するのも難しいのである。このことを抜きにして、大学の授業改善を簡単に考えるべきではない。
 だからといって、大学における授業の改善をしなくてもいいとか、難しいから無駄だといっているわけではない。
 小学校などで授業研究を行い安いのは、担任が全科を教えることが前提であり、教えることが決まっているから、互いの授業を見せあうことで、確かに授業の方法の違いを認識し、よりよい授業を模索することが共同で可能になる。しかし、中学になると、同じ授業をやるのは、せいぜい2人程度であり、同じ教科の教師といっても、たぶん5、6人がせいぜいだろう。
 ところが、大学では、マンモス大学では事情が異なるだろうが、私が属している小規模大学では、科目の担当者は一人しかいない。従って、ある授業をどのようにやればいいかいという検討は、たとえお互いに授業を見せあっても、見る方はその授業をやっていないし、また、将来的にもやらないのだから、当事者と非当事者という形になり、検討の意味が小学校などとは異なってしまうのである。
 そういうことも、大学での授業研究、特に相互に授業を見せあうことは進まないのだといえる。アメリカでは、相互に授業に出席しあう関係が多いそうだが、それは決して授業研究というよりは、自分たちの研究や勉学に有用だから、学ぶ意味で出席しているのではないかと考えられる。
 実は私は、今学期初めて他の教授の授業に参加させてもらった。講義形式の授業を受講したわけである。以前、その分野で日本を代表する研究者がいたときに、授業に出たいと思っていたのだが、なかなかその機会がないまま、定年でやめてしまったので、残念に思っていた。そこで、ぜひ聴きたいと思っていた授業を聴講させてもらったわけだ。もちろん、その分野の勉強をするためであって、その人の授業のやり方を学んだり、まして検討するために出席したわけではない。ただ、私とはかなりやり方が違う授業スタイルから、いろいろと学ぶことがあった。また、他の教師が出席しているということで、やはり多少の緊張はあったようで、いつもよりは内容的に充実させようという気持ちが強く働いたらしい。そういう意味では、相互受講は、大学の授業改善にいい結果をもたらすと期待していいようだ。

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2007年8月12日 (日)

大学教育の課題(4)私語の問題1

 一斉授業において「私語」は大きな問題である。小学校から大学まで、私語は授業における最もポピュラーな問題であり、教師が頭を悩ませる問題である。特に、大学の場合には、数百人の学生が受講する授業も少なくないから、そうした授業で私語が横行したら、ほとんど授業にならない。実際に、圧倒的な学生は授業を聞いておらず、おしゃべりをしているのに、黙々と講義を進める教授がいる、というようなことは、よく学生から聞く話である。幸い私はそうした目にあったことがないが、気をつけないといけない。また、私語をするよりもっと悪い現象もある。それは、出欠をとった後、学生たちがどんどん教室から去ってしまうという現象である。私自身は、どうしてそういうことを放置しておくのか理解できないが、実際に私の勤めている大学でも、数は少ないがあるそうだ。出欠を前後2回とればいいと思うが、大教室ではそれも難しいのかも知れない。しかし、出欠をとられたら教室を出て行ってしまう学生というのは、何者なのだろうか、と訝しく思うが、それが現実であることを思うと、そうした実態を前提に大学の授業を考えねばならないということだろう。
 何故私語が起きるのだろうか。「大学の私語の研究」という書物もあるが、あまりに古い本なので、ここでは参考にしない。
 まず考えられることは、当然、その授業がつまらないから私語をするということであろう。これは否定しようがない。しかし、ではつまらなくない授業なら、私語はないかということ、もちろん、それは違う。授業で問題意識を喚起されると、学生はとなりに座っている友人と話したくなることが少なくない。授業と全く関係ない話での私語ならば、「つまらない」証拠であるが、授業と関係ある私語なら、授業が学生に刺激を与えているわけである。
 では、つまらない授業は必ず私語が発生するかというと、必ずしもそうではない。どんなにつまらない授業でも、私語が起きにくいことがある。それは学生が「作業」を強いられるときである。つまり、昔の帝国大学で普通だったように、教授がノートを読み上げ、学生はそれを必死に筆記するというような授業形式である。竹内洋は、帝国大学で私語がなかったのは、そうした授業形式だったからで、授業が充実していたとか、学生が優れていたとかの理由ではないと述べている。確かに、今の学生は、板書すると本能的にノートに書くという習性がある。だから、私語を少なくするためには、ノートさせる時間をたくさんとると効果的であるが、それがよい授業であるかどうかは、極めて疑問である。
 現在の大学生は、いわゆる「参加型」の授業を望む場合が多い。尤もそれが本心であるかは問題であるが、。すべての授業が参加型になったら、学生の負担は相当大きくなるから、講義型も実は多くの学生が望んでいるというのが実態だろう。
 さて、参加型の授業をして、なおかつ私語を少なくする方法はあるのだろうか。それはかなり困難な課題であるといえる。
 その前に参加型の授業とは何かを明確にしておく必要があるだろう。
 単に教師が教壇で話し続ける、いわゆる通常の「講義」は参加型ではないから、それ以外の学生の授業へのかかわりがある授業ということになるだろう。演習のように、学生がレポートをすれば、明らかに参加型であるが、講義形式でも学生の発言を促し、そこで討議が行われるようなものであれば、参加型である。
 

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2007年2月18日 (日)

大学教育の課題(3)

 一頃、大学はレジャーランドなどという言い方をされていたが、最近の大学はあまりそうしたことを聞かない。少なくとも私の勤務校では、以前からまじめな学生が多く、勉強をそれなりにしていたが、最近は目的志向の学生が多いために、学習意欲は決して低くない。しかも、不況の中、高い授業料を払っているのだから、それなりに成果をあげたいと思っているし、また、いいかげんな授業に対しては厳しい評価をもっている。これも「授業評価アンケート」が普及してきた成果かも知れない。
 しかし、学習意欲が高いことが必ずしも学習につながるわけではない。大きな理由は、高校までの勉強と大学の勉強がかなりスタイルが異なることと、大学の勉強をするためにはかなりの条件整備が大学に必要であるが、そうした条件整備をしている大学は極めて少ないことが理由となって、ほとんどの学生はなんとなく過ごしてしまうことになる。もちろん、明確な将来像をもっており、そのためには更なる試験を突破しなければならないような学生はよく勉強する。しかし、そうした必要があまりない学生は、不況のおりから、バイトが大変であるのと、授業料はますます高くなっているために、学習に向ける時間が少なくなっている。
 だが、ここでは、条件整備の方について考えてみよう。
 大学設置基準は、単位について次のように定めている。

21条
 前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。
一  講義及び演習については、十五時間から三十時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。
二  実験、実習及び実技については、三十時間から四十五時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。

 以前はもう少し細かく規定していたのだが、今はこのようにおおざっぱになっているが、しかし、基本は同じである。通常講義は15回行われるから、1時間の授業に対して、2時間の自習が必要であるということになる。45時間をどのように割り振るかは大学の裁量であるが、かなりの家庭学習が必要であることは、法的規定となっている。しかし、学生の時間割の状況と物理的な時間を考えると、自習は不可能である。かなリ前になるが、大講義室の授業で、大学一年生に家庭学習を週にどのくらいやっているかと聞いたとき、ほとんどが30分以内であった。つまり、ほとんど家庭での学習はないということになる。 このような状況で、学生の力が向上するとは考えにくい。
 このように家庭学習をほとんどしない状況が生まれたのは、決して物理的時間の不足ではない。更に教師の側の問題と教育条件整備の問題というふたつの原因があるように思われる。
 大学に限らず、学生に家庭学習を求めることは、教師にとっても負担が大きくなる。何も知らずに、何も準備なしに学生が授業に参加するのが、教師にとっては一番楽である。ほとんどの教師は2、3回同じ授業を回転させれば、ほとんど準備なしに授業を行うことができる。しかし、学生がしっかり準備をしたり、前回の授業の復習をしていれば、教師も授業準備を怠るわけにはいかなくなるし、また、宿題を出せばその点検等の負担も増える。だから学生と教師は、楽も楽でないのも、基本的には同じなのである。
 そうして、学生の不勉強を理由に、教師も不勉強になっていく悪循環が、これまでの日本の大学には多く見られたのではなかろうか。
 しかし、教師が学生にしっかりと家庭学習をさせると決意しても、実際にはなかなかうまくいかない。それは資料の不足である。アメリカのしっかりした大学では、すべてとは言わないが、授業で必要な参考図書は当該授業の平均的な聴講学生の数だけそろっているという。だから、この本の何頁から何頁まで読んでくるように、と課題を出したときに、本がなかったという言い訳は効かない状態になっている。だが、日本の大学でそういう宿題を出せる大学があるだろうか。
 多くとも同じ本は2、3冊というのがいいところで、1冊しかないのが普通だろう。そうすると、本がないのだから、本を読む宿題を各週出すというわけにはいかないのだ。
 ではこの悪条件は改善できないのだろうか。
 私はインターネットはこの条件をかなりの程度実現する可能性をもっていると思う。インターネット上にデジタル教材を蓄積していけば、全員が読むだけの資料が揃うわけであり、本がないという言い訳はできないことになる。大学の教師がこの可能性を実行に移すときが、日本の大学教育の質を飛躍させるときだと考えている。

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大学教育の課題(3)

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2007年2月13日 (火)

大学教育の課題(2)

 では学生は勉強をしたがっているのか。もちろん、様々な大学があり、また、様々な学生がいるきだから、単純にはいえないが、世間で言われるほど学生は遊び志向ではない。むしろ、大学に入るときには、受験勉強から解放されて、これからもしかしたら好きな勉強ができるのではないかと考えている。それがあまり熱心ではない、高校とあまり変わらない一般教養の科目を取らされて、急速に学習意欲を低下させていくというパターンが少なくない。

 私の所属している学科では、10年力前から、1年生から専門科目を履修できるようにしようという提案がなされていた。しかし、旧来の教養観というべきか、一般教育科目を履修してから専門に分化していくべきだという主張によって、それが抑えられてきた。今の大学というのは、かなり性格が分化している。研究志向の大学もあるし、また、教育志向の大学もある。しかし、いずれにせよ自分が学びたいことを学べるのが大学だと思っているから、専門を学べないことは学生たちの学習意欲を著しく削ぐことになる。やっと私の学科でも新しいカリキュラムが認められると、1年生から専門科目をある程度学べるようになるが、それもまだ正式の決定ではない。

 今の学生にとって、一般教養が切実な学習課題となるのは、就職活動を目の前にしてのことである。日本の就職活動においては、大学の成績が問われることはほとんどない。だから、独自の選抜を行う。ペーパー試験をやるとしたら、だいたいは特別な専門領域でなければ一般教養という範疇での試験である。だから、ペーパー試験をするような就職を望む学生たちはにわかに一般教養のための勉強を始めることになる。しかし、ほとんどの大学は一般教養科目を削減してきたし、また、履修させる場合でも、1年生に集中して学ぶ雰囲気になっているところがほとんどだろう。もし、学生が1年生から3年生にかけて専門を学び、3年4年で一般教養科目を学ぶというように、今の体制とまったく逆転させたら、ずっと勉強する学生が多くなるのではないかと思う。

 尤もその場合には、既に一般教養とは何かという基本的な性質を考慮しないものになってしまうだろう。当然既に、一般教養の定義などはほとんど実際には存在しない状態で大学では教えられていると思うが。

 私は心理学の強い学部に所属し、心理学系の学科にいる他専門の教師だが、心理学は一般教養にもまた専門科目にもある。もちろん、一般教養としての心理学と専門としての心理学との共通認識上での差異は存在しないと思う。個々の担当者の見解によって使い分けられることになる。

 

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2007年2月12日 (月)

大学教育の課題(1)

 昨年は聴覚障害の学生の受講があったので、その援助のための試みを書いたが、より広範な話題について大学の教育改善の試みについて書いてみたい。

 現在大学はかつて経験したことがない困難な状況に直面している。もちろんそういうことに無関係な大学もあるが、ほとんどの私学は無縁ではない。ここで初めて、日本の大学は入り口の評価だけではなく、出口の評価、つまり大学の本来の任務のひとつである「教育活動」の成果をもって評価される時代が来たわけである。ある意味では大学人として情けないと思うが、これまでのようにあまり真剣みのない授業を繰り返すものの多い状況から脱出することは、理由はともあれよいことだろう。

 アメリカの大学と違って、日本の大学は、もともと大学の授業を受ける基礎をもたずに入ってくる学生を前提にした教育プログラムをもってこなかった。大学入試をして、ある程度の質を確保し、また、大学を希望しても入ることのできない大量の高校生がいたから、大学に来ること自体が目的となっている膨大な青年層を相手にしていたからである。

 だから本の読み方とか、文の書き方というような、非常に基本的な訓練をする場が、いままでの日本の大学はほとんど用意して来なかったのである。その一方で、あまり代り映えのしない英語教育などを営々と続けている、その授業の改善は個々の担当教師に任されているが、教養の英語を担当する教員はほとんどが非常勤であるというような状況に象徴されるのが、多くの私立大学の教育実態だったろう。

 しかし、それでは通用しない状況に既になっている。一体何が必要なのだろうか。

 私自身教育推進の課題を考えざるをえない立場にいたこともあり、この間いくつかの問題を考えたのだが、私が属しているのは中堅の私立大学の文系である。それを前提にした発想であることを予め断っておく。理系の実態にはまったく則していないだろうと思う。

 ではまず第一の課題は何か。

 おそらく日本の大学教師は、「教育」において「教える工夫が必要だ」という意識を、ほとんどもたないできたと思われる。それは特に偏差値の高い学生が集まる大学ほどそうだった。教育は研究の片手間にやるものか、あるいは研究の成果を特に「わかるように工夫」する必要もなく、学生に伝えるのが大学の授業というものだという意識だろう。

 しかし、今の学生はそういう授業にはあまりそぐわない面をもっている。研究成果をほぼ生のまま伝えても、その前提になっている知識群をもっているとはいえない。私学はほぼ3教科以下の受験科目であるから、学生自身の共通教養は存在しないといっても間違いない状況である。また、学生は塾に通った経験をもつものが多くなっているから、「教え方」の工夫をする教師に慣れている。工夫のない授業にもついていく習慣は形成されていないように思われるのである。教師の一方通行の授業は面白くない、学生に魅力的な授業をやる責任が教師にはあるという意識が一般的なのである。

 もちろん、大学の教師は高校までのように学習指導要領で決められた範囲や教科書をあてがわれて授業をするのではないから、学問の先進部分での研究ではなくとも、とにかく研究をしなければ授業はできない。教え方の工夫までは配慮が行き届かないのも無理はないといえる。しかし、そういう授業をやっている限り、学生の不満は募り、教育の質は向上せず、そして、大学の評価も低下してしまうという事態になっている。

 だから、まず第一の課題は、工夫した授業で学生を惹きつけ、学生に多いに勉強させなければならないということである。当たり前のことだが、これがまだまだ十分に認識されているとはいえないのである。(つづく)

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2006年11月 8日 (水)

聴覚障害学生援助の試み12

 聴覚障害学生への援助はもちろん、ノートテークや音声認識等で講義の内容をリアルタイムで知らせることだけではない。もちろん、その一部ではあるが、ビデオを見せるときに、そこに含まれる音声を知らせることは通常のノートテークでも難しいし、声が違うから音声認識はまったく使用できない。ノートテークが難しいのは、スピードが違うことと、通常ビデオを見せるときには、特に大教室の場合にはプロジェクターを使用するので暗くすることが多い。だからノートを取りにくいし、また、見にくいわけだ。
 以前講義で見せるビデオの音声をあらかじめ印刷して授業のときに渡したことがあるのだが、やはり非常に見にくかったようで、あまり役にたたなかった。音が聞こえないから、プリントとやっている場面との照合が難しいから、ノートテーカーも同時に見ておく必要があり、場所を教えなければならない。暗い中でそれをやるのはやはりあまり容易ではないようだ。
 従って、その場合にはあらかじめ字幕をビデオに挿入しておくことが望ましい。
 ところが、この間字幕挿入のためのソフトをいろいろと調べてみたが、非常にやっかいな状況だと思った。
 たくさんあるビデオ編集ソフトは字幕挿入機能がないか、あっても非常に貧弱なのだ。まず多くのソフトには機能そのものが欠けている。
 あっても随時字幕をいれていく方式のものがほとんどだ。これでは実用にならない。字幕はやはり、字幕として入れるテキストをあらかじめ用意し、それをコピー&ペースト方式で入れられなければ、実用には使えない。
 また、字幕挿入を専門にするソフトもあるようだが、かなり使えそうなのは有料で高い上に、特別な装置が必要だったりする。無料のソフトもあるが、いろいろな制約があって使いづらい。結局今のところ、ソフトを探しているという状況だ。
 この文章を読んでいる人で、何かいいソフトを知っていたら教えてください。

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2006年7月21日 (金)

聴覚障害学生援助の試み(11)

 学生Nに関わる点の続きである。
 Nは極めて熱心な学生で、こんな学生ばかりならどんなに授業がやりやすいだろうといつも思っていた。私はテキストを自分で書き、当時は印刷してほぼ実費で販売していた。そのテキストを読んでくることを求めていたのだが、実際に読んできている学生はそんなにはいなかったと思われる。しかし、Nは常に読んできていて、授業中に発言する内容をあらかじめ書いてくることが多かった。もっとも、自分では授業の進行を十分に把握していないので、ときにはあまり適切でないときに自分の意見を発表することもあったが、それでもみんなしっかりと聞いていたと思う。もちろん自分で読むことはできないので、ノートテイカーが代読した。
 さて、そういうときに苦労して、結局実現できなかったことがある。それはビデオをみせるときに、予めビデオで流れる声を字幕にできないうかということだった。ビデオをダビングしながら、字幕を入れる機械はあるようだったが、それは非常に高価で、使うことはできないと思った。
 コンピューターに録画することは可能だから、ビデオ編集ソフトで、簡単に字幕を入れられるものを探すと、これが非常に困難だった。
 2000年当時はまだパソコン用のビデオ編集ソフトはまだまだ貧弱で、ほとんどが長さ制限があった。短いものは5分程度しかファイル化できない。ファイルをつなげながら録画する方式で、長時間可能なものもあったが、それは字幕を入れることが非常にやっかいだった。
 両方できるソフトがアドビのものだったが、ビデオカードに対する制限が強く、当時使用していたパソコンではうまく動かなかった。つまり、一長一短ありで、結局字幕をうまくいれらるのは当時はなかったのである。今はあるのだろうか。
 この場合字幕を入れるというのは、最初にビデオでながれる声をすべてテキスト化しておき、それをどんどん場面場面にいれていくことができる方式でなければならない。当時はそれを簡単にできるソフトはなかった。だから、それはあきらめざるをえなかった。
 研究費がたっぷりあるわけでもなく、いろいろなソフトを試してみるというのも難しいし、これができればずいぶん援助ができるのに、ということはたくさんあるのだが。

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2006年7月20日 (木)

聴覚障害学生援助の試み(10)

 ディベートをすることになり、とりあえず、学生たちのを発言を私がパソコンで打ち込み、彼の発言は自分でパソコンに打ち込み、みんながそれを読むという形にすることは決めた。しかし、実際にどのようにパソコンを接続し、どのようなソフトでやるかは、考えなければいけない。
 まずarvelのUSBファイル交換ケーブルというのを使い、相手方のファイルを読む形で、チャット形式ができるのではないかと考え、やってみた。しかし、これはあくまでも相手のファイルを読むもので、ディスプレイに表示されている内容をリアルタイムで読みあうことができるわけではないことがわかり、やめることにした。もっとも、やり方がわからなかっただけで、本当はできるかも知れない。
 その後、サーバーを通したチャット形式を試してみることにして、いくか無料のソフトをダウンロードし、やってみたが、結局、intrachat というフリーソフトを使うことにした。ひとつのパソコンをサーバーとして立ち上げると、クライアントはインターネット・エクスプローラでチャットに参加できるという手軽なソフトなので、これを使うことにした。
 事前に彼と練習するために、研究室にきてもらい、60分ほど相互にこのソフトを使用して、ソフトにも慣れた。
 それで本番を迎えた。

Debate1

 パソコン構成は、チャットのサーバーとして使用するパソコン、彼が使うパソコン、そして、私のもの。私のには、親指シフトキーボートk611が接続されている。そして、私のパソコンから教室のスクリーンにつながれて、私のパソコンと同じ内容がスクリーンに映し出される仕組みになっている。
 今回は音声認識ソフトはまったく使用せず、とにかくすべてキーボードからの打ち込みで処理した。
 結果は、たぶんディベートがきちんと成立したということになるだろうか。彼自身もキーボードを打って発言したし、また、他の学生たちの発言は、私は打ち込んでディスプレイに表示したり、スクリーンで見ることができたので、内容は理解したはずだ。

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2006年7月16日 (日)

聴覚障害学生援助の試み(9)

 私が初めて聴覚障害の学生を教えることになったのは、初めて大学で講義をすることになった非常勤講師のときだった。最初はまったくそのことに気づかず、おかしな集団がいるなと思い、よほど注意しようかと思ったほどだった。つまり、手話の学生がふたり、教卓に背をむけてなにやら仕種をしているから、授業をまじめに聞いていないのかと思ったのだった。
 しかし、なんといっても大学で教える初めてのことだったので、とりあえず様子をみていた。そして、授業を終わったときに、彼らがやってきて、事情を説明し、更にFMマイクを使用してくれないかと要望をいわれた。まったく聞こえないわけではなく、特別のマイクを通して補聴器で聞くとかなり理解できるのだそうだ。それで私は次回から、通常の講義用のマイクとFMマイクをふたつもって講義をすることになった。そのこと自体はたいしたことではなかった。
 彼らの説明によると、聴覚障害の学生の授業にはすべて二人ずつの手話通訳をつけているということだった。今から考えるとかなりレベルの高い手話サークルだったようだ。
 結局一年間そういう具合に講義が続いた。

 それから現在の大学に就職したが、2000年に聴覚障害の学生が入学するまで、まったくそうしたことはなかった。その学生をNとしておこう。実はNが入学試験を受けるときに、その旨が当該学科には知らされていたのだが、合格後そのことを教員たちは忘れてしまっていた。そのために、授業体制を考えることがまったくなく時間が過ぎてしまい、私自身に関していうと、最初の授業が終わったときに、Nがやってきて、聴覚障害であることを知らせる一枚の紙を差し出したときに、初めてそのことを知った。
 すっかり驚いた私は、最初の非常勤のことがあったので、すぐに手話サークルに向かった。サークルの学生たちは部室にいたので、すこし話をすることができた。彼らははっきりとではないが、聴覚障害の学生がいることを知っていたようだ。しかし、そのためにそのサークルが何かやるというようにはなっていなかった。そこで、私は彼らに対応を考えてほしいと伝え、それから学生課に向かった。もちろん学生課では事態をつかんでいたし、どうしようか考えていたので、とにかく手話対応をしてほしいと伝えた。
 もちろん、すぐに有効な対応ができるなどということは考えられないので、とりあえず自分の授業をどうしようかと考えたが、自分でできることはほとんどないわけだ。
 次の授業前に、学生課から連絡があって、手話通訳はその時点でのサークルの状況では無理であること、そのためにノートテイクの方向でいくということが伝えられた。
 実は、それですぐにノートテイクの学生がくると思ってしまって、次の授業にNの隣に座っている学生がそうなのだと勘違いしてしまった。たぶんその学生はびっくりしたろうが、とてもよくノートテイクをやってくれた。その後もその学生が2、3回やってくれたので、今から考えると悪いことをしたものだ。まったくノートテイカーではなかったのだから。
 私の方ではノートテイクがどの程度正確なものであるか、確信がなかったので、とりあえず自分で録音をとって、事後に起こして印刷したものをNに渡すことにして、ノートテイクをしてくれた学生にも渡した。お礼のつもりだったのだが、やがて、特定の学生に渡すよりも、どうせならみんなに渡したら、授業の理解を深めるのに役にたつのではないかと思い、ホームページに掲載することにしたのである。もっとも、それは学内の非公開のホームページに掲載したので一般公開ではなかった。結局Nに関しては、私の授業をとっている限りずっと録音と起こしを続けることになった。1年秋学期からは公開のホームページに掲載してある。
 しかしなんといってもこの方法は、非常に手間がかかるし、誰もがやれることではない。一度自分で起こすのは大変なので、学生のボランティアを募ったところ、やってくれる人はけっこういた。そして、一度頼んだのだが、2週間ほどたってやってもってきてくれた。もちろん学生は忙しいのだし、なかなか時間がとれないなかよくやってくれたのだが、次の授業前に掲載できなければあまり意味がないので、やはり自分でやるしかないと考えた。他人の話をおこすのは非常に手間がかかるものだ。私がやる場合、自分のだから何をいったかはあまり明瞭に聞こえなくても判断できるし、余計な部分はどんどん省いてしまうことができるから、かなりの速さでできるので、やはり、学生がというより、他人がやるのは大変だと考えなおした。

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