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2006年5月30日 (火)

聴覚障害の学生援助の試み(5)

 昨日のあまりに不出来な結果を踏まえて、少しコンピュータの状況を確認しようと思って、短い文章を読んで、USBマイクの延長コードを使うかどうかで、どの程度結果が異なるかを調べてみた。

 まずは読み上げた文章は、以下のものである。

経済政策の究極の目標は総雇用の水準と安定性、国際収支の水準と構成、インフレーション率と経済成長率であった。ただ、この究極目標のために政府がなしうることと、とるべき手段を厳しく限定してきた。それが、インフレーションを沈静化し、持続的経済成長率が達成されうる諸条件を作り出すことであった。

 まず、延長コードを使用せず音声認識をさせたところ、以下のようになった。

経済政策の究極の目標は倉庫用の水準と安定性、国際収支の水準と構成。インフレーション率と経済成長率であった。ただ、この究極目標のために政府がなしうることととるべき手段を厳しく限定してきた。それが、インフレーションを沈静化し、持続的経済成長率が達成され諸条件を作り出すことであった。

 変換ミスは、「総雇用」が「倉庫用」になっていること、「うる」が「郡」になっている2点だけで、あとは、句読点が多少変なだけである。まずまずの変換といえよう。
 それで次に、延長コードをつけて同じように文章を読み上げた。結果は。

経済政策の究極の目標は倉庫用の水準と安定性、国際収支の水準と構成。インフレーション率と経済成長率であった。忠交響曲目標のために政府がなしうることととるべき手段を厳しく限定してきた。それがインフレーションを沈静化し、持続的経済成長率が達成されうる諸条件を作り出すことであった

 「うる」が正しく変換されたが、「総雇用」は相変わらずの上、「ただ、この究極」が「忠交響曲」などと珍妙な変換になり、まったく意味不明になってしまった。長い文章になると、こういうことが頻出する。とにかく、「総雇用」がでないので、単語学習のために、認識率向上センターを呼び出し、熟語と読み方の登録をする。そして、延長コードのままでやったのが、次である。

経済政策の究極の目標は倉庫用の水準と安定性、国際収支の水準と構成。インフレーション率と経済成長率であった太田、この究極目標のために政府がなしうることととるべき手段を厳しく限定してきた。それが良いそれションを沈静化し、持続的経済成長率が達成され諸条件を作り出すことであった

 これが一番ミス変換が多いことになった。新たに「。ただ」が「太田」になり、「インフレーション」が「良いそれション」となり、「うる」が「郡」というミスが復活してしまった。そこで、再度延長コードをとってやったところ、「倉庫用」以外は正しく変換した。

 この結果、やはり、コードは短くなければならないことがわかったのだが、せっかく、単語を音声とともに登録しても、結局、ワープロソフトのように「学習機能」が効かないので、「倉庫用」といつまでも変換してしまう。エディタの修正機能を使ってキーボードから訂正しても、学習機能としては働かないと、電話のサポートでは言われたのだが、そうすると、確かに、発音を正しく変換しているが、熟語としてはミス変換であるという場合の対処がわからないことになる。研究課題となるのだろうか。

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2006年5月29日 (月)

聴覚障害学生援助の試み(4)

 いよいよ今日初めて、試験的な音声認識ソフトを使用しての授業をやってみた。

 まずノートパソコンを教卓の前におき、学生とノートテーカーは一番前の席ということで、まだ誰も来ていない教室で、セットする。学生の机の前に隣の教室から小さな机をもってきて、そこに、ディスプレイを置く。ディスプレイとノートパソコンをディスプレイコードで接続するのだが、短いために、延長コードを使用する。しかし、ディスプレイコードは両端なオスなので、メス・メスの変換器をつける。これで教卓のノートパソコンと学生の前のディスプレイが同じ画面を表示する。

 問題は、ヘッドフォンとパソコンのつなぎ方だが、授業をやるときには、黒板に書くし、また、パワーポイントやビデオを見せるために、ビデオラックに移動して、そこでDVDを操作したり、またパワーポイントのスライドショーを操作しなければならない。それで、ヘッドフォンがUSB接続方式なので、USBの延長コードを利用する。実はこれが問題なのかも知れない。USBコードは延長しないのが原則で、5メートル延長コードをつけたので、ここでノイズがはいりやすくなり、認識率が低下したかも知れないので、来週はとにくか、USBコードの延長はしないでやってみようと思う。

 さて、段々学生が入ってきて、授業時間になる。こうした準備は一時間目なので、30分以上前に来てやっていたのだが、一時間目だとこういう利点がある。

 授業を始める前に、当然、前々から断ってはいたが、今日から試験的にやってみること、とにかく認識率は低いとしても、段々よくなるだろうから、我慢してもらうことを了解してもらう。そして、他の学生たちには、この試験的試みを説明し、ときどき授業がストップするがこれも我慢してもらうことを求めた。

 さて、こうしてとにかく、6年前から考えていたことを初めて行ってみたわけだが、結果は、良好とは言えなかった。何よりもまずいのは、私の話し方である。ドラゴンスピーチの現行バージョンはかなり認識率が高く、使えるものであるが、それはあくまでも、きちんとした話し方をすることが前提になっている。しかし、講義中の話は、原稿を読むわけではないし、かなり自由に話していくのが、私のやり方だ。どうしても、文法的には正しくない言い方をしたり、つまったり、「あー」「ええと」「うー」というような声が入ってしまう。そうすると、とたんに認識が悪くなり、その後はしばらく、何のことかまったくわからない文字が羅列されることになる。

 授業が終わって、正しい講義録にしようとかなり時間を書けたのだが、4分の1くらいしかできなかった。昨年、テープ起こしで講義録を再生し、ホームページにアップしていたが、それはせいぜい3時間であった。しかし、今日は2時間以上かけて4分の1だから、こちらの方が時間がかかることになる。詳しくは、どんなミス変換があったのかは、講義録に修正してから、ピックアップして紹介しようと思っているが、主な原因は、ソフトやハードではなく、「話し方」そのものであったように思われる。

 とにかく話し方をコンピュータ向けにしないと、認識率は向上しそうにない。それは授業そのものを聞きやすくするのに、効果があるるか、あるいは逆効果であるのかは、わからない。

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2006年5月25日 (木)

情報化と大学教育(1)

  2006年5月25日の毎日新聞フェブ版によると「東大、京都大、早大、慶大など11大学が参加する「大学CIOフォーラム」の第2回が24日、東京都内で開かれ、「大学革新のためのIT戦略」の提言をまとめた。」ということだそうだ。大学が大きな情報産業の中に位置づけられるようになり、孤立した機関ではありえなくなっているし、また、ますますそうなるだろう。研究はずっと前から大学の外に向かって発せられることが重点であったが、教育は内部的に行われるものだった。しかし、教育は外に対しても発せられる情報のひとつになっていく。そうした流れを作れる大学とそうでない大学との差が開いていくのだろう。
 教育が大学の外にも持ち出されるとなると、必ず、「では大学の意味はどこにあるの」」かという問いが発せられる。しかし、これはスポーツのメディア報道、特にテレビ放映のときに行われた議論と多少似たところがあるように思われる。テレビ中継したら、わざわざ見に行かなくてもいいのだから、スポーツ観戦の客は減ってしまうのではないかという危惧があった。しかし、実際にはテレビ放映されるスポーツほど、観客は多いのではないだろうか。
 ただ、大学の場合が同じである保障はない。つまり、スポーツや音楽会などは、「生の魅力」があるが、大学の教室での授業が「生の魅力」を実感させることができるかどうか。もし、外に発信される教育内容と、教室の生の授業が対して違わなければ、わざわざ大学に行く必要は感じないだろう。スポーツ観戦などよりは、はるかに一度に多額の費用が必要なのだから。大学で教育活動に従事している者は、このことを真剣に考える必要があるだろう。
 では、大学の授業には「生の魅力」がないのだろうか。
 私はあると思いたい。そして、それはやはり、外に出された「情報」では持ち得ないものでなければならない。それはおそらく、教員と学生による真剣勝負の議論だろう。その議論の中で獲得された知識が吟味され、新たな論理を獲得していく実感があれば、外に出された情報は、ますます「生の魅力」を喚起し、大学に人を引き寄せることができると考えられる。しかし、そのためには、大学教師の相当な覚悟と努力が必要であることは間違いない。そして、現在のインターネットと大学の教育活動の融合が進んでいくことは疑いないところだ。私もできるだけ、そうした視野で教育活動を行っていきたい。

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2006年5月21日 (日)

聴覚障害学生への援助の試み(3)

 どういうシステムでやろうとしているかというと、まずノートパソコンに音声認識ソフトをいれて、講義の声を文字化する。それを学生が見るわけだが、問題はいくつかある。

 まず、講義者(私)とパソコンと学生の距離の問題だ。講義するときには、当然板書したりするわけだから歩き回る。そのために、パソコンまである程度の距離が必要だ。しかし、通常この種のソフトについているヘッドフォンマイクはコードが短い。それで、USB式のマイクなので、USB延長コードを注文した。実はこの点はまだ試していない。つまり、コードが長くなると、それだけ音質の劣化が起きるわけだが、劣化の程度がまだわからない。それから、大学の教室はもちろん、講義者と聴講学生の椅子の間が比較的広い。だから、一番前に座ってもらっても、ある程度の距離がある。そこで、学生はディスプレイコードでつなげた別のディスプレイで見ることにし、援助が必要な学生が複数いる場合には、ディスプレイハブを利用して、数台のディスプレイに表示することを考えている。

 そして、問題はどの程度の認識率が保障されるかだが、当初、話していくとどんどん変換されていくわけだが、それと同時進行で訂正することを考えた。つまり、ノートパソコンに変換を訂正していく人をボランティアでついてもらおうと思ったわけだ。そういうことが可能かどうか、実際にやってみたのだが、実はそれは不可能だということがわかった。つまり、音声認識ソフトを使った人はわかると思うが、ワープロの変換のように、変換している部分にカーソルがついていく。しかし、訂正するためには、もちろん、訂正する部分にカーソルを移動させる必要があるのだが、どんどん話しているわけだから、常に一番先頭にカーソルはあるわけで、訂正したい部分に移動できないのである。

 なんとかできないかと思って、ソフトの会社に電話してみた。結論としてはそれはできないということだった。また、そんな質問を受けたこともないということだった。したがって、そうしたリアルタイムの変換と訂正を同時に進行させることは、少なくとも今のソフトではできないわけだ。結局、認識率を向上させるための様々な方法をもちいて、訂正があまり必要ないような話し方をする以外にはないということがわかった。

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2006年5月19日 (金)

聴覚障害学生援助の試み(2)

 選択しているソフトはドラゴンスピーチというソフトだ。このプロフェッショナルバージョンはパソコンソフトとしては極めて高価だが、確かに変換率は極めて高いように思われる。それで、このソフトを使って再び試してみることにした。学科に交渉して、ソフトを買ってもらう。こういうことに、学科は理解があるので、すんなりといく。昨年の暮れのことだ。

 ドラゴンスピーチのプロフェッショナル版は、スタンダード版と違うのは、認識率向上のための特別のプログラムがついていることと、英語、それもアメリカ、イギリス、オーストラリアその他の英語圏の違いを考慮した、英語音声認識ソフトがついている。後者はほとんどの日本人はいらないのではないだろうか。とすれば、英語音声認識は落として、認識率向上プログラムだけをつけて、スタンダードより2万程度高価なの製品にしてほしいと思ったものだ。なにしろ、スタンダード版より、8万程度高い。

 それはいいとして、高価なこともあるが、さすがに、認識率は高いと思った。それで、実用化してみようかと思ったのだが、そこにパソコンのレベルという問題が生じた。もちろん、教室で使用するのだからノートパソコンでなければならない。試しに、今使用している軽いノートパソコンにインストールしてみたところ、スペック不足で、インストールすらできない。一応windows XP  professional のパソコンである。メモリとか、CPUなど品塾であることはわかっていたが、ドラゴンスピーチインストールを試みてみたところ、スペック不足でインストールできないとメッセージが出たときにはがっくりきた。そこで、ちゃんとしたパソコンを購入してもらおうと思ったのだが、年度末で、予算が既に決定済、早期に開始することはあきらめることにした。

 そして、年度が改まったので、早速、学科に提起、そこは、理解のある人たちだから、承認、ハイエンドノートパソコンを購入することにした。とにかく、ソフトの説明書に機能の高いパソコンでないと十分な効果が得られないと書いてあるからは、機能の高い、速いパソコンを探す。結局、自作パソコンにすることにして、部品等を買い揃え、準備室の技術をもった人に依頼、結局、部品を店の人が間違えるなどして、交換を経て組み立てをしてもらったために、かなり日数がたってしまい、やっとできて、ソフトインストール、認識率向上のための努力をしたあと、いよいよ実験に入った。

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2006年5月18日 (木)

聴覚障害学生への援助の試み(1)

 近年障害をもった人たちが大学に入学してくる。とてもいいことだ。大学経営層は、それが仕方のない負担だと考えているふしがある。つまり、障害者を差別する大学という悪評から免れるためには、仕方ない「税」みたいなものというわけだ。しかし、そうだろうか。

 障害者を受けいれることは、とても大学のためになるのだ。私の大学では、前に全盲の学生を受けいれた。これは、当該学部の教員のほとんどが反対したらしいのだが、熱心な教授が自分が責任をもつからということで、説得した結果、受験が可能となり、そして合格したのだ。受けいれた以上、大学としては、いろいろな援助をしたし、誠実に対応したと思う。しかし、それだけではなく、大学がとても住みやすくなった。それまでは、学内で自転車をたくさんの人が乗っていたのだが、とにかく乱雑にとめていて、特に、授業で校舎に乗り付けるわけだから、入り口付近に無造作に駐輪していた。そのために入り口は自転車だらけで、通るのが一苦労という感じになっていた。しかし、それは全盲の学生にとってはとても危険な状態だ。それで、ある面で仕方なく、入り口に自転車を停めると、全盲の学生にとても危ないので、やめるように呼びかけ、駐輪場をしっかりと作って管理した。さすがに、まじめな学生たちだったので、入り口に駐輪するひとたちはいなくなった。それまでは、校舎に入るのが大変だったのだが、すっかり整理され、安全になった。全盲の学生が入学しなければ、いまだに、入り口付近に自転車があふれていたかも知れない。

 このような明らかな効用を生むこともあるのだ。これはとても大切なことだと思う。障害者に住みよい環境は、健常者にとっても住みよいのは当たり前のことだろう。つまり、障害者が存在することによって、環境への配慮が生じ、それが全員にとってよい環境形成に資することになるのだ。だから単なる同情というようなレベルではなく、障害者の学ぶ権利を実際に保障することは、とても教育条件の整備にとって好ましいことなのだということを強く主張したい。

 さて、私は今聴覚障害の学生のために、なんとか、授業を理解するのにいい方法を実現したいと努力している。しかし、なかなかうまくいかない。試行錯誤をここで報告しながら、よりよいやり方を探っていきたいと思っている。ぜひ、何かいい方法があったら教えて欲しいと思います。

 さて、その第一回として、これまでのことを述べよう。

 2000年くらいに最初の聴覚障害の学生が入学した。実は、入学試験を受けるときに、そのことはわかっていたのだが、合格したあと、そのことを教員たちはすっかり忘れてしまっていた。学生が入学式のときに、自分で手話通訳を頼んでいたことで、それをその学生の入学を思い出させたのだった。実に大学人として反省すべきことであった。

 しかし、その時点で私はまだ知らなかった。入学式などは、大々的にやるので、平教員は出席しないからである。私が知ったのは、最初の授業の終わりにその学生が紙に書いた説明書を私に渡したからである。そこには、私は耳が聞こえないので、そのことを考慮して授業をしてほしいということが書いてあった。実は、私が人生で初めて大学で授業をさせてもらった非常勤の大学で、聴覚障害の学生が聴講していたことがあった。そこでは手話通訳がすべての授業に入って、講義理解の援助をしていた。私に対して、特別なマイクを使用してほしいという申し出もあったので、一年間2つのマイクを手にもって授業をしたものだ。

 そういう経験があったので、直ちに私は手話サークルに駆け込んだ。すると、確かにそのサークルは聴覚障害の学生が入学した事実をつかんでいた人がいたが、サークルとして体制をとっていたわけではなかった。そこで学生課に駆け込み、とにかく対策を依頼した。そうして、サークルや学生課、そして教務課など、関係者が徐々に対応を初め、当初非常に不満であった学生も少しずつ、大学の対応を認めるようになった。

 さて、授業といえば、残念ながら、手話サークルでは、それまでそうした経験がなかったので、大学の授業を通訳できるほどの手話通訳力がなかったので、ノートテークをすることになった。しかし、それはかなり大変そうだったので、ノートテークを認めつつ、音声認識ソフトを使用して、講義をパソコン上でリアルタイムでテキスト化できないかと、大学に高価なパソコンとソフトを購入することを依頼し、認めてもらったので、試してみた。しかし、結果は散々で、とても使い物にならない代物だった。まだまだ、当時のパソコンの能力やソフトのレベルでは、講義を音声認識することは無理だったのだ。

 それで私としては、講義を録音し、それを起こして、ホームページ上に掲載することにした。それはいまでも掲載されている。また、2005年に入学した学生もいるので、2005年も一年間同じことをやった。

 これは、またまた、通常の学生たちにとってもいい効果をもたらしたと思う。つまり、講義内容が、ほぼその日のうちに、ホームページ上に掲載されるのだから、講義であいまいにしか理解できなかったところ、誤解しているかも知れないところを正確に確認することができるのだ。アメリカやカナダの大学では、かなり当たり前に行われていることだが、日本の大学では、極めて珍しい例だろう。どのくらい学生に利用されたかどうかは、わからないが、私自身も、自分の声が曖昧な部分などの確認ができて、いい訓練になったと思っている。

 さて、それで、また音声認識ソフトを試してみようかと思った。さすがに、毎回録音のおこしをやることはきついし、人数も増えてきたから、いくつもの講義を起こさなければならなくなる。それで、再び挑戦したわけだ。次回から、その顛末を、まだ、実は始めたばかりなので、リアルタイム報告とともに、報告していきたい。

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2006年5月16日 (火)

大学について考えること(1)

 大学全入時代を迎えていることはよく知られている。さすがの保守的な大学もさまざまな改革に乗り出している。しかし、きっかけが少子化という「災難のごとき」事態?であるために、将来を見越して、人々のための改革はどんなものなのか、なかなか見えて来ない。だから、行き当たりばったりのものが多い。

 しかし実際には大学が本当に変わるチャンスであり、こんなチャンスはまたとないのかも知れない。社会が大きく変化していく中で大学だけがそのままでいられるはずがないのだから。少子化といっても、実は高齢者という学びたい人々がたくさんいる。若者は実利的な意識で大学に来るが、学びの場としての大学は、やはり、「学ぶこと自体が目的」であるような人たちの集まりでありたい。デンマークには、フォルケホイスコレという民衆のための全寮制の学校がある。卒業したことによる「資格」は何ら付与されない。その代わり、学びたいから学ぶという人たちがやってくる。しかも生活を共にしながら、数カ月を学ぶ。その内容は、学問的なものから、趣味的なものまで、実に様々だ。昔は大学の代わりのような教育施設だったが、高校や大学教育が充実してくるにつれて、少なくなってきたが、特色ある教育をする形で、今でもたくさん残っている。

 もちろん、これから社会に出て行く人たちにとっては、実利的な目的で大学で学ぶことは非難されるようなものではないだろう。しかし、そこに多くの「学びたいから学ぶ」人たちが存在していることによって、学びの姿は大きく変わるに違いない。

 しかし、ほとんどの日本の大学では、教育スタイル、あるいはカリキュラムが、18歳から22歳の日本の青年達が学ぶという前提で構成されている。そのために、その条件とは違う人たちが学びのためにやってくると、いろいろな困難にぶつかり、中には辞めていく者もいる。そうした条件が、大学での教育、学びにとって、絶対に必要な要素なら仕方ないだろうが、本当にそれが「大学教育」にとって必要なものなのか多いに疑問なものが少なくないのだ。例えば、体育が必修になっている大学がたくさんある。しかし、これは障害をもった人たちにとってはやっかいなものだ。もちろん、大学が障害に応じた体育の授業をやってくれれば問題はないし、また、健康増進にとって好ましいのだろうが、それはかなり難しいことが多い。また、体育は高齢者にとっても大きなハードルになるだろう。

 英語が必修であるというのも、同じように機能することがたくさんある。日本への留学生はアジアからが多いが、必ずしもすべてのアジアの国が英語教育をしっかりやっているわけではない。留学生はたいてい「日本語能力」を証明して入学が認められるから、なんとか授業にはついていけるが、逆に英語がまったくだめで、進級できない例がけっこうあるのだ。大学に入ると、ほとんどの学生は英語力が落ちると言われて久しい。これは、大学教育が英語を必要としないからだ。教員たちは、「英語は必要」と口ではいうが、実際に自分の授業の中で英語を必要とさせている場合はほとんどない。(もちろん英語が専門である領域では違うが。)単に必修である英語の単位を取るために、大学教育に不可欠とは言えない英語の授業をやらされているという感じではないだろうか。

 大学自体が今後、その存在形態が大きく変わっていくだろう。

 具体的に少しずつここで考えていきたい。

 

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