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2007年2月18日 (日)

大学教育の課題(3)

 一頃、大学はレジャーランドなどという言い方をされていたが、最近の大学はあまりそうしたことを聞かない。少なくとも私の勤務校では、以前からまじめな学生が多く、勉強をそれなりにしていたが、最近は目的志向の学生が多いために、学習意欲は決して低くない。しかも、不況の中、高い授業料を払っているのだから、それなりに成果をあげたいと思っているし、また、いいかげんな授業に対しては厳しい評価をもっている。これも「授業評価アンケート」が普及してきた成果かも知れない。
 しかし、学習意欲が高いことが必ずしも学習につながるわけではない。大きな理由は、高校までの勉強と大学の勉強がかなりスタイルが異なることと、大学の勉強をするためにはかなりの条件整備が大学に必要であるが、そうした条件整備をしている大学は極めて少ないことが理由となって、ほとんどの学生はなんとなく過ごしてしまうことになる。もちろん、明確な将来像をもっており、そのためには更なる試験を突破しなければならないような学生はよく勉強する。しかし、そうした必要があまりない学生は、不況のおりから、バイトが大変であるのと、授業料はますます高くなっているために、学習に向ける時間が少なくなっている。
 だが、ここでは、条件整備の方について考えてみよう。
 大学設置基準は、単位について次のように定めている。

21条
 前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。
一  講義及び演習については、十五時間から三十時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。
二  実験、実習及び実技については、三十時間から四十五時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。

 以前はもう少し細かく規定していたのだが、今はこのようにおおざっぱになっているが、しかし、基本は同じである。通常講義は15回行われるから、1時間の授業に対して、2時間の自習が必要であるということになる。45時間をどのように割り振るかは大学の裁量であるが、かなりの家庭学習が必要であることは、法的規定となっている。しかし、学生の時間割の状況と物理的な時間を考えると、自習は不可能である。かなリ前になるが、大講義室の授業で、大学一年生に家庭学習を週にどのくらいやっているかと聞いたとき、ほとんどが30分以内であった。つまり、ほとんど家庭での学習はないということになる。 このような状況で、学生の力が向上するとは考えにくい。
 このように家庭学習をほとんどしない状況が生まれたのは、決して物理的時間の不足ではない。更に教師の側の問題と教育条件整備の問題というふたつの原因があるように思われる。
 大学に限らず、学生に家庭学習を求めることは、教師にとっても負担が大きくなる。何も知らずに、何も準備なしに学生が授業に参加するのが、教師にとっては一番楽である。ほとんどの教師は2、3回同じ授業を回転させれば、ほとんど準備なしに授業を行うことができる。しかし、学生がしっかり準備をしたり、前回の授業の復習をしていれば、教師も授業準備を怠るわけにはいかなくなるし、また、宿題を出せばその点検等の負担も増える。だから学生と教師は、楽も楽でないのも、基本的には同じなのである。
 そうして、学生の不勉強を理由に、教師も不勉強になっていく悪循環が、これまでの日本の大学には多く見られたのではなかろうか。
 しかし、教師が学生にしっかりと家庭学習をさせると決意しても、実際にはなかなかうまくいかない。それは資料の不足である。アメリカのしっかりした大学では、すべてとは言わないが、授業で必要な参考図書は当該授業の平均的な聴講学生の数だけそろっているという。だから、この本の何頁から何頁まで読んでくるように、と課題を出したときに、本がなかったという言い訳は効かない状態になっている。だが、日本の大学でそういう宿題を出せる大学があるだろうか。
 多くとも同じ本は2、3冊というのがいいところで、1冊しかないのが普通だろう。そうすると、本がないのだから、本を読む宿題を各週出すというわけにはいかないのだ。
 ではこの悪条件は改善できないのだろうか。
 私はインターネットはこの条件をかなりの程度実現する可能性をもっていると思う。インターネット上にデジタル教材を蓄積していけば、全員が読むだけの資料が揃うわけであり、本がないという言い訳はできないことになる。大学の教師がこの可能性を実行に移すときが、日本の大学教育の質を飛躍させるときだと考えている。

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大学教育の課題(3)

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2007年2月13日 (火)

大学教育の課題(2)

 では学生は勉強をしたがっているのか。もちろん、様々な大学があり、また、様々な学生がいるきだから、単純にはいえないが、世間で言われるほど学生は遊び志向ではない。むしろ、大学に入るときには、受験勉強から解放されて、これからもしかしたら好きな勉強ができるのではないかと考えている。それがあまり熱心ではない、高校とあまり変わらない一般教養の科目を取らされて、急速に学習意欲を低下させていくというパターンが少なくない。

 私の所属している学科では、10年力前から、1年生から専門科目を履修できるようにしようという提案がなされていた。しかし、旧来の教養観というべきか、一般教育科目を履修してから専門に分化していくべきだという主張によって、それが抑えられてきた。今の大学というのは、かなり性格が分化している。研究志向の大学もあるし、また、教育志向の大学もある。しかし、いずれにせよ自分が学びたいことを学べるのが大学だと思っているから、専門を学べないことは学生たちの学習意欲を著しく削ぐことになる。やっと私の学科でも新しいカリキュラムが認められると、1年生から専門科目をある程度学べるようになるが、それもまだ正式の決定ではない。

 今の学生にとって、一般教養が切実な学習課題となるのは、就職活動を目の前にしてのことである。日本の就職活動においては、大学の成績が問われることはほとんどない。だから、独自の選抜を行う。ペーパー試験をやるとしたら、だいたいは特別な専門領域でなければ一般教養という範疇での試験である。だから、ペーパー試験をするような就職を望む学生たちはにわかに一般教養のための勉強を始めることになる。しかし、ほとんどの大学は一般教養科目を削減してきたし、また、履修させる場合でも、1年生に集中して学ぶ雰囲気になっているところがほとんどだろう。もし、学生が1年生から3年生にかけて専門を学び、3年4年で一般教養科目を学ぶというように、今の体制とまったく逆転させたら、ずっと勉強する学生が多くなるのではないかと思う。

 尤もその場合には、既に一般教養とは何かという基本的な性質を考慮しないものになってしまうだろう。当然既に、一般教養の定義などはほとんど実際には存在しない状態で大学では教えられていると思うが。

 私は心理学の強い学部に所属し、心理学系の学科にいる他専門の教師だが、心理学は一般教養にもまた専門科目にもある。もちろん、一般教養としての心理学と専門としての心理学との共通認識上での差異は存在しないと思う。個々の担当者の見解によって使い分けられることになる。

 

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2007年2月12日 (月)

大学教育の課題(1)

 昨年は聴覚障害の学生の受講があったので、その援助のための試みを書いたが、より広範な話題について大学の教育改善の試みについて書いてみたい。

 現在大学はかつて経験したことがない困難な状況に直面している。もちろんそういうことに無関係な大学もあるが、ほとんどの私学は無縁ではない。ここで初めて、日本の大学は入り口の評価だけではなく、出口の評価、つまり大学の本来の任務のひとつである「教育活動」の成果をもって評価される時代が来たわけである。ある意味では大学人として情けないと思うが、これまでのようにあまり真剣みのない授業を繰り返すものの多い状況から脱出することは、理由はともあれよいことだろう。

 アメリカの大学と違って、日本の大学は、もともと大学の授業を受ける基礎をもたずに入ってくる学生を前提にした教育プログラムをもってこなかった。大学入試をして、ある程度の質を確保し、また、大学を希望しても入ることのできない大量の高校生がいたから、大学に来ること自体が目的となっている膨大な青年層を相手にしていたからである。

 だから本の読み方とか、文の書き方というような、非常に基本的な訓練をする場が、いままでの日本の大学はほとんど用意して来なかったのである。その一方で、あまり代り映えのしない英語教育などを営々と続けている、その授業の改善は個々の担当教師に任されているが、教養の英語を担当する教員はほとんどが非常勤であるというような状況に象徴されるのが、多くの私立大学の教育実態だったろう。

 しかし、それでは通用しない状況に既になっている。一体何が必要なのだろうか。

 私自身教育推進の課題を考えざるをえない立場にいたこともあり、この間いくつかの問題を考えたのだが、私が属しているのは中堅の私立大学の文系である。それを前提にした発想であることを予め断っておく。理系の実態にはまったく則していないだろうと思う。

 ではまず第一の課題は何か。

 おそらく日本の大学教師は、「教育」において「教える工夫が必要だ」という意識を、ほとんどもたないできたと思われる。それは特に偏差値の高い学生が集まる大学ほどそうだった。教育は研究の片手間にやるものか、あるいは研究の成果を特に「わかるように工夫」する必要もなく、学生に伝えるのが大学の授業というものだという意識だろう。

 しかし、今の学生はそういう授業にはあまりそぐわない面をもっている。研究成果をほぼ生のまま伝えても、その前提になっている知識群をもっているとはいえない。私学はほぼ3教科以下の受験科目であるから、学生自身の共通教養は存在しないといっても間違いない状況である。また、学生は塾に通った経験をもつものが多くなっているから、「教え方」の工夫をする教師に慣れている。工夫のない授業にもついていく習慣は形成されていないように思われるのである。教師の一方通行の授業は面白くない、学生に魅力的な授業をやる責任が教師にはあるという意識が一般的なのである。

 もちろん、大学の教師は高校までのように学習指導要領で決められた範囲や教科書をあてがわれて授業をするのではないから、学問の先進部分での研究ではなくとも、とにかく研究をしなければ授業はできない。教え方の工夫までは配慮が行き届かないのも無理はないといえる。しかし、そういう授業をやっている限り、学生の不満は募り、教育の質は向上せず、そして、大学の評価も低下してしまうという事態になっている。

 だから、まず第一の課題は、工夫した授業で学生を惹きつけ、学生に多いに勉強させなければならないということである。当たり前のことだが、これがまだまだ十分に認識されているとはいえないのである。(つづく)

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