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2007年8月13日 (月)

大学の授業改善5

 文部科学省は、大学においても教員の授業のやり方に関する研修を行うような方向を目指しているようだが、そして、文部科学省のことだから、それを強制するのだろうが、実際のところ非常に難しいと思われる。難しいという理由は単純で、形式的なことならいざ知らず、誰が大学の授業についての研修の指導をするのかという問題がある。およそ大学の教師で、他の教師に授業のやり方を指導する気持ちになるような人は、かえってその授業が学生に支持されているか疑問だ。東海大学のグループが書いた、「授業が変われば大学は変わる」という本があるが、この本も授業のやり方についての具体的な提言があるわけではなく、学生による授業評価を行い、それを公表し、教員評価とすることで待遇に結びつけるという主張をしているだけである。そうすれば、教授たちも一生懸命授業を行い、悪い点を治していくだろうという、外からの飴と笞の政策の提言をしているたけである。
 大学の授業というのは、教師たちの「研究」の上にたった、まず内容ありきというものなので、方法研究をすることは非常に難しいし、また、他人が方法について指導するのも難しいのである。このことを抜きにして、大学の授業改善を簡単に考えるべきではない。
 だからといって、大学における授業の改善をしなくてもいいとか、難しいから無駄だといっているわけではない。
 小学校などで授業研究を行い安いのは、担任が全科を教えることが前提であり、教えることが決まっているから、互いの授業を見せあうことで、確かに授業の方法の違いを認識し、よりよい授業を模索することが共同で可能になる。しかし、中学になると、同じ授業をやるのは、せいぜい2人程度であり、同じ教科の教師といっても、たぶん5、6人がせいぜいだろう。
 ところが、大学では、マンモス大学では事情が異なるだろうが、私が属している小規模大学では、科目の担当者は一人しかいない。従って、ある授業をどのようにやればいいかいという検討は、たとえお互いに授業を見せあっても、見る方はその授業をやっていないし、また、将来的にもやらないのだから、当事者と非当事者という形になり、検討の意味が小学校などとは異なってしまうのである。
 そういうことも、大学での授業研究、特に相互に授業を見せあうことは進まないのだといえる。アメリカでは、相互に授業に出席しあう関係が多いそうだが、それは決して授業研究というよりは、自分たちの研究や勉学に有用だから、学ぶ意味で出席しているのではないかと考えられる。
 実は私は、今学期初めて他の教授の授業に参加させてもらった。講義形式の授業を受講したわけである。以前、その分野で日本を代表する研究者がいたときに、授業に出たいと思っていたのだが、なかなかその機会がないまま、定年でやめてしまったので、残念に思っていた。そこで、ぜひ聴きたいと思っていた授業を聴講させてもらったわけだ。もちろん、その分野の勉強をするためであって、その人の授業のやり方を学んだり、まして検討するために出席したわけではない。ただ、私とはかなりやり方が違う授業スタイルから、いろいろと学ぶことがあった。また、他の教師が出席しているということで、やはり多少の緊張はあったようで、いつもよりは内容的に充実させようという気持ちが強く働いたらしい。そういう意味では、相互受講は、大学の授業改善にいい結果をもたらすと期待していいようだ。

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2007年8月12日 (日)

大学教育の課題(4)私語の問題1

 一斉授業において「私語」は大きな問題である。小学校から大学まで、私語は授業における最もポピュラーな問題であり、教師が頭を悩ませる問題である。特に、大学の場合には、数百人の学生が受講する授業も少なくないから、そうした授業で私語が横行したら、ほとんど授業にならない。実際に、圧倒的な学生は授業を聞いておらず、おしゃべりをしているのに、黙々と講義を進める教授がいる、というようなことは、よく学生から聞く話である。幸い私はそうした目にあったことがないが、気をつけないといけない。また、私語をするよりもっと悪い現象もある。それは、出欠をとった後、学生たちがどんどん教室から去ってしまうという現象である。私自身は、どうしてそういうことを放置しておくのか理解できないが、実際に私の勤めている大学でも、数は少ないがあるそうだ。出欠を前後2回とればいいと思うが、大教室ではそれも難しいのかも知れない。しかし、出欠をとられたら教室を出て行ってしまう学生というのは、何者なのだろうか、と訝しく思うが、それが現実であることを思うと、そうした実態を前提に大学の授業を考えねばならないということだろう。
 何故私語が起きるのだろうか。「大学の私語の研究」という書物もあるが、あまりに古い本なので、ここでは参考にしない。
 まず考えられることは、当然、その授業がつまらないから私語をするということであろう。これは否定しようがない。しかし、ではつまらなくない授業なら、私語はないかということ、もちろん、それは違う。授業で問題意識を喚起されると、学生はとなりに座っている友人と話したくなることが少なくない。授業と全く関係ない話での私語ならば、「つまらない」証拠であるが、授業と関係ある私語なら、授業が学生に刺激を与えているわけである。
 では、つまらない授業は必ず私語が発生するかというと、必ずしもそうではない。どんなにつまらない授業でも、私語が起きにくいことがある。それは学生が「作業」を強いられるときである。つまり、昔の帝国大学で普通だったように、教授がノートを読み上げ、学生はそれを必死に筆記するというような授業形式である。竹内洋は、帝国大学で私語がなかったのは、そうした授業形式だったからで、授業が充実していたとか、学生が優れていたとかの理由ではないと述べている。確かに、今の学生は、板書すると本能的にノートに書くという習性がある。だから、私語を少なくするためには、ノートさせる時間をたくさんとると効果的であるが、それがよい授業であるかどうかは、極めて疑問である。
 現在の大学生は、いわゆる「参加型」の授業を望む場合が多い。尤もそれが本心であるかは問題であるが、。すべての授業が参加型になったら、学生の負担は相当大きくなるから、講義型も実は多くの学生が望んでいるというのが実態だろう。
 さて、参加型の授業をして、なおかつ私語を少なくする方法はあるのだろうか。それはかなり困難な課題であるといえる。
 その前に参加型の授業とは何かを明確にしておく必要があるだろう。
 単に教師が教壇で話し続ける、いわゆる通常の「講義」は参加型ではないから、それ以外の学生の授業へのかかわりがある授業ということになるだろう。演習のように、学生がレポートをすれば、明らかに参加型であるが、講義形式でも学生の発言を促し、そこで討議が行われるようなものであれば、参加型である。
 

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