2007年8月13日 (月)

大学の授業改善5

 文部科学省は、大学においても教員の授業のやり方に関する研修を行うような方向を目指しているようだが、そして、文部科学省のことだから、それを強制するのだろうが、実際のところ非常に難しいと思われる。難しいという理由は単純で、形式的なことならいざ知らず、誰が大学の授業についての研修の指導をするのかという問題がある。およそ大学の教師で、他の教師に授業のやり方を指導する気持ちになるような人は、かえってその授業が学生に支持されているか疑問だ。東海大学のグループが書いた、「授業が変われば大学は変わる」という本があるが、この本も授業のやり方についての具体的な提言があるわけではなく、学生による授業評価を行い、それを公表し、教員評価とすることで待遇に結びつけるという主張をしているだけである。そうすれば、教授たちも一生懸命授業を行い、悪い点を治していくだろうという、外からの飴と笞の政策の提言をしているたけである。
 大学の授業というのは、教師たちの「研究」の上にたった、まず内容ありきというものなので、方法研究をすることは非常に難しいし、また、他人が方法について指導するのも難しいのである。このことを抜きにして、大学の授業改善を簡単に考えるべきではない。
 だからといって、大学における授業の改善をしなくてもいいとか、難しいから無駄だといっているわけではない。
 小学校などで授業研究を行い安いのは、担任が全科を教えることが前提であり、教えることが決まっているから、互いの授業を見せあうことで、確かに授業の方法の違いを認識し、よりよい授業を模索することが共同で可能になる。しかし、中学になると、同じ授業をやるのは、せいぜい2人程度であり、同じ教科の教師といっても、たぶん5、6人がせいぜいだろう。
 ところが、大学では、マンモス大学では事情が異なるだろうが、私が属している小規模大学では、科目の担当者は一人しかいない。従って、ある授業をどのようにやればいいかいという検討は、たとえお互いに授業を見せあっても、見る方はその授業をやっていないし、また、将来的にもやらないのだから、当事者と非当事者という形になり、検討の意味が小学校などとは異なってしまうのである。
 そういうことも、大学での授業研究、特に相互に授業を見せあうことは進まないのだといえる。アメリカでは、相互に授業に出席しあう関係が多いそうだが、それは決して授業研究というよりは、自分たちの研究や勉学に有用だから、学ぶ意味で出席しているのではないかと考えられる。
 実は私は、今学期初めて他の教授の授業に参加させてもらった。講義形式の授業を受講したわけである。以前、その分野で日本を代表する研究者がいたときに、授業に出たいと思っていたのだが、なかなかその機会がないまま、定年でやめてしまったので、残念に思っていた。そこで、ぜひ聴きたいと思っていた授業を聴講させてもらったわけだ。もちろん、その分野の勉強をするためであって、その人の授業のやり方を学んだり、まして検討するために出席したわけではない。ただ、私とはかなりやり方が違う授業スタイルから、いろいろと学ぶことがあった。また、他の教師が出席しているということで、やはり多少の緊張はあったようで、いつもよりは内容的に充実させようという気持ちが強く働いたらしい。そういう意味では、相互受講は、大学の授業改善にいい結果をもたらすと期待していいようだ。

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2007年8月12日 (日)

大学教育の課題(4)私語の問題1

 一斉授業において「私語」は大きな問題である。小学校から大学まで、私語は授業における最もポピュラーな問題であり、教師が頭を悩ませる問題である。特に、大学の場合には、数百人の学生が受講する授業も少なくないから、そうした授業で私語が横行したら、ほとんど授業にならない。実際に、圧倒的な学生は授業を聞いておらず、おしゃべりをしているのに、黙々と講義を進める教授がいる、というようなことは、よく学生から聞く話である。幸い私はそうした目にあったことがないが、気をつけないといけない。また、私語をするよりもっと悪い現象もある。それは、出欠をとった後、学生たちがどんどん教室から去ってしまうという現象である。私自身は、どうしてそういうことを放置しておくのか理解できないが、実際に私の勤めている大学でも、数は少ないがあるそうだ。出欠を前後2回とればいいと思うが、大教室ではそれも難しいのかも知れない。しかし、出欠をとられたら教室を出て行ってしまう学生というのは、何者なのだろうか、と訝しく思うが、それが現実であることを思うと、そうした実態を前提に大学の授業を考えねばならないということだろう。
 何故私語が起きるのだろうか。「大学の私語の研究」という書物もあるが、あまりに古い本なので、ここでは参考にしない。
 まず考えられることは、当然、その授業がつまらないから私語をするということであろう。これは否定しようがない。しかし、ではつまらなくない授業なら、私語はないかということ、もちろん、それは違う。授業で問題意識を喚起されると、学生はとなりに座っている友人と話したくなることが少なくない。授業と全く関係ない話での私語ならば、「つまらない」証拠であるが、授業と関係ある私語なら、授業が学生に刺激を与えているわけである。
 では、つまらない授業は必ず私語が発生するかというと、必ずしもそうではない。どんなにつまらない授業でも、私語が起きにくいことがある。それは学生が「作業」を強いられるときである。つまり、昔の帝国大学で普通だったように、教授がノートを読み上げ、学生はそれを必死に筆記するというような授業形式である。竹内洋は、帝国大学で私語がなかったのは、そうした授業形式だったからで、授業が充実していたとか、学生が優れていたとかの理由ではないと述べている。確かに、今の学生は、板書すると本能的にノートに書くという習性がある。だから、私語を少なくするためには、ノートさせる時間をたくさんとると効果的であるが、それがよい授業であるかどうかは、極めて疑問である。
 現在の大学生は、いわゆる「参加型」の授業を望む場合が多い。尤もそれが本心であるかは問題であるが、。すべての授業が参加型になったら、学生の負担は相当大きくなるから、講義型も実は多くの学生が望んでいるというのが実態だろう。
 さて、参加型の授業をして、なおかつ私語を少なくする方法はあるのだろうか。それはかなり困難な課題であるといえる。
 その前に参加型の授業とは何かを明確にしておく必要があるだろう。
 単に教師が教壇で話し続ける、いわゆる通常の「講義」は参加型ではないから、それ以外の学生の授業へのかかわりがある授業ということになるだろう。演習のように、学生がレポートをすれば、明らかに参加型であるが、講義形式でも学生の発言を促し、そこで討議が行われるようなものであれば、参加型である。
 

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2007年2月18日 (日)

大学教育の課題(3)

 一頃、大学はレジャーランドなどという言い方をされていたが、最近の大学はあまりそうしたことを聞かない。少なくとも私の勤務校では、以前からまじめな学生が多く、勉強をそれなりにしていたが、最近は目的志向の学生が多いために、学習意欲は決して低くない。しかも、不況の中、高い授業料を払っているのだから、それなりに成果をあげたいと思っているし、また、いいかげんな授業に対しては厳しい評価をもっている。これも「授業評価アンケート」が普及してきた成果かも知れない。
 しかし、学習意欲が高いことが必ずしも学習につながるわけではない。大きな理由は、高校までの勉強と大学の勉強がかなりスタイルが異なることと、大学の勉強をするためにはかなりの条件整備が大学に必要であるが、そうした条件整備をしている大学は極めて少ないことが理由となって、ほとんどの学生はなんとなく過ごしてしまうことになる。もちろん、明確な将来像をもっており、そのためには更なる試験を突破しなければならないような学生はよく勉強する。しかし、そうした必要があまりない学生は、不況のおりから、バイトが大変であるのと、授業料はますます高くなっているために、学習に向ける時間が少なくなっている。
 だが、ここでは、条件整備の方について考えてみよう。
 大学設置基準は、単位について次のように定めている。

21条
 前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。
一  講義及び演習については、十五時間から三十時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。
二  実験、実習及び実技については、三十時間から四十五時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。

 以前はもう少し細かく規定していたのだが、今はこのようにおおざっぱになっているが、しかし、基本は同じである。通常講義は15回行われるから、1時間の授業に対して、2時間の自習が必要であるということになる。45時間をどのように割り振るかは大学の裁量であるが、かなりの家庭学習が必要であることは、法的規定となっている。しかし、学生の時間割の状況と物理的な時間を考えると、自習は不可能である。かなリ前になるが、大講義室の授業で、大学一年生に家庭学習を週にどのくらいやっているかと聞いたとき、ほとんどが30分以内であった。つまり、ほとんど家庭での学習はないということになる。 このような状況で、学生の力が向上するとは考えにくい。
 このように家庭学習をほとんどしない状況が生まれたのは、決して物理的時間の不足ではない。更に教師の側の問題と教育条件整備の問題というふたつの原因があるように思われる。
 大学に限らず、学生に家庭学習を求めることは、教師にとっても負担が大きくなる。何も知らずに、何も準備なしに学生が授業に参加するのが、教師にとっては一番楽である。ほとんどの教師は2、3回同じ授業を回転させれば、ほとんど準備なしに授業を行うことができる。しかし、学生がしっかり準備をしたり、前回の授業の復習をしていれば、教師も授業準備を怠るわけにはいかなくなるし、また、宿題を出せばその点検等の負担も増える。だから学生と教師は、楽も楽でないのも、基本的には同じなのである。
 そうして、学生の不勉強を理由に、教師も不勉強になっていく悪循環が、これまでの日本の大学には多く見られたのではなかろうか。
 しかし、教師が学生にしっかりと家庭学習をさせると決意しても、実際にはなかなかうまくいかない。それは資料の不足である。アメリカのしっかりした大学では、すべてとは言わないが、授業で必要な参考図書は当該授業の平均的な聴講学生の数だけそろっているという。だから、この本の何頁から何頁まで読んでくるように、と課題を出したときに、本がなかったという言い訳は効かない状態になっている。だが、日本の大学でそういう宿題を出せる大学があるだろうか。
 多くとも同じ本は2、3冊というのがいいところで、1冊しかないのが普通だろう。そうすると、本がないのだから、本を読む宿題を各週出すというわけにはいかないのだ。
 ではこの悪条件は改善できないのだろうか。
 私はインターネットはこの条件をかなりの程度実現する可能性をもっていると思う。インターネット上にデジタル教材を蓄積していけば、全員が読むだけの資料が揃うわけであり、本がないという言い訳はできないことになる。大学の教師がこの可能性を実行に移すときが、日本の大学教育の質を飛躍させるときだと考えている。

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2007年2月13日 (火)

大学教育の課題(2)

 では学生は勉強をしたがっているのか。もちろん、様々な大学があり、また、様々な学生がいるきだから、単純にはいえないが、世間で言われるほど学生は遊び志向ではない。むしろ、大学に入るときには、受験勉強から解放されて、これからもしかしたら好きな勉強ができるのではないかと考えている。それがあまり熱心ではない、高校とあまり変わらない一般教養の科目を取らされて、急速に学習意欲を低下させていくというパターンが少なくない。

 私の所属している学科では、10年力前から、1年生から専門科目を履修できるようにしようという提案がなされていた。しかし、旧来の教養観というべきか、一般教育科目を履修してから専門に分化していくべきだという主張によって、それが抑えられてきた。今の大学というのは、かなり性格が分化している。研究志向の大学もあるし、また、教育志向の大学もある。しかし、いずれにせよ自分が学びたいことを学べるのが大学だと思っているから、専門を学べないことは学生たちの学習意欲を著しく削ぐことになる。やっと私の学科でも新しいカリキュラムが認められると、1年生から専門科目をある程度学べるようになるが、それもまだ正式の決定ではない。

 今の学生にとって、一般教養が切実な学習課題となるのは、就職活動を目の前にしてのことである。日本の就職活動においては、大学の成績が問われることはほとんどない。だから、独自の選抜を行う。ペーパー試験をやるとしたら、だいたいは特別な専門領域でなければ一般教養という範疇での試験である。だから、ペーパー試験をするような就職を望む学生たちはにわかに一般教養のための勉強を始めることになる。しかし、ほとんどの大学は一般教養科目を削減してきたし、また、履修させる場合でも、1年生に集中して学ぶ雰囲気になっているところがほとんどだろう。もし、学生が1年生から3年生にかけて専門を学び、3年4年で一般教養科目を学ぶというように、今の体制とまったく逆転させたら、ずっと勉強する学生が多くなるのではないかと思う。

 尤もその場合には、既に一般教養とは何かという基本的な性質を考慮しないものになってしまうだろう。当然既に、一般教養の定義などはほとんど実際には存在しない状態で大学では教えられていると思うが。

 私は心理学の強い学部に所属し、心理学系の学科にいる他専門の教師だが、心理学は一般教養にもまた専門科目にもある。もちろん、一般教養としての心理学と専門としての心理学との共通認識上での差異は存在しないと思う。個々の担当者の見解によって使い分けられることになる。

 

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2007年2月12日 (月)

大学教育の課題(1)

 昨年は聴覚障害の学生の受講があったので、その援助のための試みを書いたが、より広範な話題について大学の教育改善の試みについて書いてみたい。

 現在大学はかつて経験したことがない困難な状況に直面している。もちろんそういうことに無関係な大学もあるが、ほとんどの私学は無縁ではない。ここで初めて、日本の大学は入り口の評価だけではなく、出口の評価、つまり大学の本来の任務のひとつである「教育活動」の成果をもって評価される時代が来たわけである。ある意味では大学人として情けないと思うが、これまでのようにあまり真剣みのない授業を繰り返すものの多い状況から脱出することは、理由はともあれよいことだろう。

 アメリカの大学と違って、日本の大学は、もともと大学の授業を受ける基礎をもたずに入ってくる学生を前提にした教育プログラムをもってこなかった。大学入試をして、ある程度の質を確保し、また、大学を希望しても入ることのできない大量の高校生がいたから、大学に来ること自体が目的となっている膨大な青年層を相手にしていたからである。

 だから本の読み方とか、文の書き方というような、非常に基本的な訓練をする場が、いままでの日本の大学はほとんど用意して来なかったのである。その一方で、あまり代り映えのしない英語教育などを営々と続けている、その授業の改善は個々の担当教師に任されているが、教養の英語を担当する教員はほとんどが非常勤であるというような状況に象徴されるのが、多くの私立大学の教育実態だったろう。

 しかし、それでは通用しない状況に既になっている。一体何が必要なのだろうか。

 私自身教育推進の課題を考えざるをえない立場にいたこともあり、この間いくつかの問題を考えたのだが、私が属しているのは中堅の私立大学の文系である。それを前提にした発想であることを予め断っておく。理系の実態にはまったく則していないだろうと思う。

 ではまず第一の課題は何か。

 おそらく日本の大学教師は、「教育」において「教える工夫が必要だ」という意識を、ほとんどもたないできたと思われる。それは特に偏差値の高い学生が集まる大学ほどそうだった。教育は研究の片手間にやるものか、あるいは研究の成果を特に「わかるように工夫」する必要もなく、学生に伝えるのが大学の授業というものだという意識だろう。

 しかし、今の学生はそういう授業にはあまりそぐわない面をもっている。研究成果をほぼ生のまま伝えても、その前提になっている知識群をもっているとはいえない。私学はほぼ3教科以下の受験科目であるから、学生自身の共通教養は存在しないといっても間違いない状況である。また、学生は塾に通った経験をもつものが多くなっているから、「教え方」の工夫をする教師に慣れている。工夫のない授業にもついていく習慣は形成されていないように思われるのである。教師の一方通行の授業は面白くない、学生に魅力的な授業をやる責任が教師にはあるという意識が一般的なのである。

 もちろん、大学の教師は高校までのように学習指導要領で決められた範囲や教科書をあてがわれて授業をするのではないから、学問の先進部分での研究ではなくとも、とにかく研究をしなければ授業はできない。教え方の工夫までは配慮が行き届かないのも無理はないといえる。しかし、そういう授業をやっている限り、学生の不満は募り、教育の質は向上せず、そして、大学の評価も低下してしまうという事態になっている。

 だから、まず第一の課題は、工夫した授業で学生を惹きつけ、学生に多いに勉強させなければならないということである。当たり前のことだが、これがまだまだ十分に認識されているとはいえないのである。(つづく)

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2006年11月 8日 (水)

聴覚障害学生援助の試み12

 聴覚障害学生への援助はもちろん、ノートテークや音声認識等で講義の内容をリアルタイムで知らせることだけではない。もちろん、その一部ではあるが、ビデオを見せるときに、そこに含まれる音声を知らせることは通常のノートテークでも難しいし、声が違うから音声認識はまったく使用できない。ノートテークが難しいのは、スピードが違うことと、通常ビデオを見せるときには、特に大教室の場合にはプロジェクターを使用するので暗くすることが多い。だからノートを取りにくいし、また、見にくいわけだ。
 以前講義で見せるビデオの音声をあらかじめ印刷して授業のときに渡したことがあるのだが、やはり非常に見にくかったようで、あまり役にたたなかった。音が聞こえないから、プリントとやっている場面との照合が難しいから、ノートテーカーも同時に見ておく必要があり、場所を教えなければならない。暗い中でそれをやるのはやはりあまり容易ではないようだ。
 従って、その場合にはあらかじめ字幕をビデオに挿入しておくことが望ましい。
 ところが、この間字幕挿入のためのソフトをいろいろと調べてみたが、非常にやっかいな状況だと思った。
 たくさんあるビデオ編集ソフトは字幕挿入機能がないか、あっても非常に貧弱なのだ。まず多くのソフトには機能そのものが欠けている。
 あっても随時字幕をいれていく方式のものがほとんどだ。これでは実用にならない。字幕はやはり、字幕として入れるテキストをあらかじめ用意し、それをコピー&ペースト方式で入れられなければ、実用には使えない。
 また、字幕挿入を専門にするソフトもあるようだが、かなり使えそうなのは有料で高い上に、特別な装置が必要だったりする。無料のソフトもあるが、いろいろな制約があって使いづらい。結局今のところ、ソフトを探しているという状況だ。
 この文章を読んでいる人で、何かいいソフトを知っていたら教えてください。

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2006年7月21日 (金)

聴覚障害学生援助の試み(11)

 学生Nに関わる点の続きである。
 Nは極めて熱心な学生で、こんな学生ばかりならどんなに授業がやりやすいだろうといつも思っていた。私はテキストを自分で書き、当時は印刷してほぼ実費で販売していた。そのテキストを読んでくることを求めていたのだが、実際に読んできている学生はそんなにはいなかったと思われる。しかし、Nは常に読んできていて、授業中に発言する内容をあらかじめ書いてくることが多かった。もっとも、自分では授業の進行を十分に把握していないので、ときにはあまり適切でないときに自分の意見を発表することもあったが、それでもみんなしっかりと聞いていたと思う。もちろん自分で読むことはできないので、ノートテイカーが代読した。
 さて、そういうときに苦労して、結局実現できなかったことがある。それはビデオをみせるときに、予めビデオで流れる声を字幕にできないうかということだった。ビデオをダビングしながら、字幕を入れる機械はあるようだったが、それは非常に高価で、使うことはできないと思った。
 コンピューターに録画することは可能だから、ビデオ編集ソフトで、簡単に字幕を入れられるものを探すと、これが非常に困難だった。
 2000年当時はまだパソコン用のビデオ編集ソフトはまだまだ貧弱で、ほとんどが長さ制限があった。短いものは5分程度しかファイル化できない。ファイルをつなげながら録画する方式で、長時間可能なものもあったが、それは字幕を入れることが非常にやっかいだった。
 両方できるソフトがアドビのものだったが、ビデオカードに対する制限が強く、当時使用していたパソコンではうまく動かなかった。つまり、一長一短ありで、結局字幕をうまくいれらるのは当時はなかったのである。今はあるのだろうか。
 この場合字幕を入れるというのは、最初にビデオでながれる声をすべてテキスト化しておき、それをどんどん場面場面にいれていくことができる方式でなければならない。当時はそれを簡単にできるソフトはなかった。だから、それはあきらめざるをえなかった。
 研究費がたっぷりあるわけでもなく、いろいろなソフトを試してみるというのも難しいし、これができればずいぶん援助ができるのに、ということはたくさんあるのだが。

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2006年7月20日 (木)

聴覚障害学生援助の試み(10)

 ディベートをすることになり、とりあえず、学生たちのを発言を私がパソコンで打ち込み、彼の発言は自分でパソコンに打ち込み、みんながそれを読むという形にすることは決めた。しかし、実際にどのようにパソコンを接続し、どのようなソフトでやるかは、考えなければいけない。
 まずarvelのUSBファイル交換ケーブルというのを使い、相手方のファイルを読む形で、チャット形式ができるのではないかと考え、やってみた。しかし、これはあくまでも相手のファイルを読むもので、ディスプレイに表示されている内容をリアルタイムで読みあうことができるわけではないことがわかり、やめることにした。もっとも、やり方がわからなかっただけで、本当はできるかも知れない。
 その後、サーバーを通したチャット形式を試してみることにして、いくか無料のソフトをダウンロードし、やってみたが、結局、intrachat というフリーソフトを使うことにした。ひとつのパソコンをサーバーとして立ち上げると、クライアントはインターネット・エクスプローラでチャットに参加できるという手軽なソフトなので、これを使うことにした。
 事前に彼と練習するために、研究室にきてもらい、60分ほど相互にこのソフトを使用して、ソフトにも慣れた。
 それで本番を迎えた。

Debate1

 パソコン構成は、チャットのサーバーとして使用するパソコン、彼が使うパソコン、そして、私のもの。私のには、親指シフトキーボートk611が接続されている。そして、私のパソコンから教室のスクリーンにつながれて、私のパソコンと同じ内容がスクリーンに映し出される仕組みになっている。
 今回は音声認識ソフトはまったく使用せず、とにかくすべてキーボードからの打ち込みで処理した。
 結果は、たぶんディベートがきちんと成立したということになるだろうか。彼自身もキーボードを打って発言したし、また、他の学生たちの発言は、私は打ち込んでディスプレイに表示したり、スクリーンで見ることができたので、内容は理解したはずだ。

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2006年7月16日 (日)

聴覚障害学生援助の試み(9)

 私が初めて聴覚障害の学生を教えることになったのは、初めて大学で講義をすることになった非常勤講師のときだった。最初はまったくそのことに気づかず、おかしな集団がいるなと思い、よほど注意しようかと思ったほどだった。つまり、手話の学生がふたり、教卓に背をむけてなにやら仕種をしているから、授業をまじめに聞いていないのかと思ったのだった。
 しかし、なんといっても大学で教える初めてのことだったので、とりあえず様子をみていた。そして、授業を終わったときに、彼らがやってきて、事情を説明し、更にFMマイクを使用してくれないかと要望をいわれた。まったく聞こえないわけではなく、特別のマイクを通して補聴器で聞くとかなり理解できるのだそうだ。それで私は次回から、通常の講義用のマイクとFMマイクをふたつもって講義をすることになった。そのこと自体はたいしたことではなかった。
 彼らの説明によると、聴覚障害の学生の授業にはすべて二人ずつの手話通訳をつけているということだった。今から考えるとかなりレベルの高い手話サークルだったようだ。
 結局一年間そういう具合に講義が続いた。

 それから現在の大学に就職したが、2000年に聴覚障害の学生が入学するまで、まったくそうしたことはなかった。その学生をNとしておこう。実はNが入学試験を受けるときに、その旨が当該学科には知らされていたのだが、合格後そのことを教員たちは忘れてしまっていた。そのために、授業体制を考えることがまったくなく時間が過ぎてしまい、私自身に関していうと、最初の授業が終わったときに、Nがやってきて、聴覚障害であることを知らせる一枚の紙を差し出したときに、初めてそのことを知った。
 すっかり驚いた私は、最初の非常勤のことがあったので、すぐに手話サークルに向かった。サークルの学生たちは部室にいたので、すこし話をすることができた。彼らははっきりとではないが、聴覚障害の学生がいることを知っていたようだ。しかし、そのためにそのサークルが何かやるというようにはなっていなかった。そこで、私は彼らに対応を考えてほしいと伝え、それから学生課に向かった。もちろん学生課では事態をつかんでいたし、どうしようか考えていたので、とにかく手話対応をしてほしいと伝えた。
 もちろん、すぐに有効な対応ができるなどということは考えられないので、とりあえず自分の授業をどうしようかと考えたが、自分でできることはほとんどないわけだ。
 次の授業前に、学生課から連絡があって、手話通訳はその時点でのサークルの状況では無理であること、そのためにノートテイクの方向でいくということが伝えられた。
 実は、それですぐにノートテイクの学生がくると思ってしまって、次の授業にNの隣に座っている学生がそうなのだと勘違いしてしまった。たぶんその学生はびっくりしたろうが、とてもよくノートテイクをやってくれた。その後もその学生が2、3回やってくれたので、今から考えると悪いことをしたものだ。まったくノートテイカーではなかったのだから。
 私の方ではノートテイクがどの程度正確なものであるか、確信がなかったので、とりあえず自分で録音をとって、事後に起こして印刷したものをNに渡すことにして、ノートテイクをしてくれた学生にも渡した。お礼のつもりだったのだが、やがて、特定の学生に渡すよりも、どうせならみんなに渡したら、授業の理解を深めるのに役にたつのではないかと思い、ホームページに掲載することにしたのである。もっとも、それは学内の非公開のホームページに掲載したので一般公開ではなかった。結局Nに関しては、私の授業をとっている限りずっと録音と起こしを続けることになった。1年秋学期からは公開のホームページに掲載してある。
 しかしなんといってもこの方法は、非常に手間がかかるし、誰もがやれることではない。一度自分で起こすのは大変なので、学生のボランティアを募ったところ、やってくれる人はけっこういた。そして、一度頼んだのだが、2週間ほどたってやってもってきてくれた。もちろん学生は忙しいのだし、なかなか時間がとれないなかよくやってくれたのだが、次の授業前に掲載できなければあまり意味がないので、やはり自分でやるしかないと考えた。他人の話をおこすのは非常に手間がかかるものだ。私がやる場合、自分のだから何をいったかはあまり明瞭に聞こえなくても判断できるし、余計な部分はどんどん省いてしまうことができるから、かなりの速さでできるので、やはり、学生がというより、他人がやるのは大変だと考えなおした。

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2006年6月 8日 (木)

聴覚障害学生の援助の試み(7)

聴覚障害学生援助の試み(7)

 次回はまた月曜日だが、それまでパワーポイントを利用したやり方を改善して、事実上パワーポイントを見ていれば、それで内容がわかるようにしようと考えている。それがいいやり方であるかどうかはわからない。今までのパワーポイントの利用は、いかにも工夫なしの、単に情報が書かれていて、それが一度に現れるパターンでやってきた。
 卒論の発表会で学生にパワーポイントを使用した発表を課しているが、彼らは実に動きに満ちたプレゼンをやる。アニメ効果を一般に使うわけだ。これは、講義には必要ないと思っていたが、アニメ効果をいれて、説明文が一度に出てくるのではなく、順に出てくるようにすれば、今何を話しているのか、少なくとも要点はわかる仕組みになる。そして、その間は、音声認識ソフトもマイクオフにし、またノートテイクも休んでもらう。
 そして、パワポから離れたときに、また、ノートテイクやマイクオンにする。そうすると、その間にかなりの改行をいれてしまえば、画面文字だらけというような状態は避けることができる。
 これでかなり改善できるとは思う。
 しかし、一方でそんな授業でいいのかという疑問もある。このようなやれば、要するに台本があって、それを読むような授業になってしまうのではないかということだ。私自身は、講義はほとんどアドリブ的要素が大きいと思っているので、もちろん、その日にやる内容はテキストで決まっているし、大筋変わることはないのだが、学生の反応や、突然思いついた内容とか、その場の進展状況でどんどん変わっていく。だから、同じ授業でも毎年少しずつ展開が違う。これが面白いと思っているのだが、かなりそうしたアドリブ的要素が制約されることになる。それでいいのだろうか、という疑問である。
 昔、大学がまだエリート養成的雰囲気をもっていた頃の講義というのは、文字通り講義録を教授がもってきて、それを棒読みするような授業が多かったとか。酷い(?)教授だと、「ここで改行」とか、「点、○」などという指示までしたとか。つまり、講義録を読み上げ、それを筆記させるのが、講義というわけだ。
 私は一年浪人したのだが、現役で入った友人に非常な秀才がいて、彼は教授がしゃべる内容をほとんど正確にきれいな文字でノートをとることができた。たまたま同じ教授の同じ授業をとったので、彼が自分のノートをくれたのだ。いつもそのノートをもちこんで授業を聞いていたのだが、まったくそのノート通りにしゃべっていくのだ。そして、ノートにはちゃんと冗談も書かれていたのだが、冗談も正確にノートの通りだった。
 講義そのものはけっしてつまらないものではなかったが、少なくともその教授を尊敬する気持ちにはなれなかった。やはり、毎年何らかの発展があってほしいと。したがって、自分としても、毎年同じというよりは、決まった内容をしゃべっていくような授業をやりたくない気持ちが強い。
 私に限らず、本などはあまりないのだし、確かに講義録をきちんと作ってくれば、筆記する意味はあるかも知れないが、情報はたくさんあり、本もあふれている現代では、そうした授業は面白くない授業の典型で、すぐにも学生からクレームがつくに違いない。今の学生は、双方向の授業を求めている。もっとも、双方向の授業が成立するためには、学生はかなり勉強しなければならないのだが。
 そういう、インタラクティブな授業がいいという立場をとると、上に書いたような、パワポを使用するとはいえ、かなり一方通行的で、アドリブ的な要素がない授業をやっていいのだろうか悩んでしまう。

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2006年6月 6日 (火)

聴覚障害学生援助の試み(6)

 2回目をやってみた。それなりの準備はしたつもりであるが、かなり道は遠いという感じである。セッティングでは、マイクのUSBコードを短くした。しかし、そのために、行動の自由範囲が極端に狭くなり、板書があまりできなくなった。音質をとるか、板書をとるかという問題が生じてしまった。確かに多少の誤認識上の問題が軽減されたけれども。

 しゃべりかたはかなり注意したが、それが逆に話しにくいという意識が強くなり、たぶん学生たちは聞くのがけっこうつらくなったのではないかと考えられる。講義は話しといっても、アドリブであるから、どうしても、つっかえたり、言いなおしたり、繰り返したりする。そういうことをしてはいけないという意識が強くなるだけ、話しづらくなるのである。しかし、これもまた慣れかも知れない。

 相変わらず誤認識はたくさんあったが、ただ、前回のように、何をしゃべったかまるでわからない箇所は少なくなり、誤変換していたとしても、何を話したかは想像がつくというレベルにはなっていた。ただし、それは自分でわかるのであって、画面を見ている学生には、通じないだろう。

 そして、今回新たに浮き彫りになった問題は、例え変換が正確になったとしても、画面をずっと見ているのはつらいということである。これは本人の弁だ。

Display1  このような感じの画面を見続けるのは、確かに無理だ。改行も入らずに、どんどん画面上に文字が流れていく。しかも、一番下にカーソルがきた後は、どんどん文字が最後に追加されていくだけで、とても見る気がしない。私だって嫌になるだろう。この点の改善が必要であろう。

 板書の問題と、この画面の問題をどう解決するか、今考えているのは、パワーポイントで見せるスクリーンの工夫。ここに、板書する内容を予め、アニメ的に表示できるようにしておく。その間は、マイクをオフにして、スクリーンを見ていれば、すべて話がわかるようにする。そして、その間に改行をたくさんいれて、画面いっぱいに文字が広がらないようにする、というようなことだろうか。

 しかし、途中で、そのようなキーボードを使用した場合、音声が残らないという難点がある。それをどうするかが問題だ。

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2006年5月29日 (月)

聴覚障害学生援助の試み(4)

 いよいよ今日初めて、試験的な音声認識ソフトを使用しての授業をやってみた。

 まずノートパソコンを教卓の前におき、学生とノートテーカーは一番前の席ということで、まだ誰も来ていない教室で、セットする。学生の机の前に隣の教室から小さな机をもってきて、そこに、ディスプレイを置く。ディスプレイとノートパソコンをディスプレイコードで接続するのだが、短いために、延長コードを使用する。しかし、ディスプレイコードは両端なオスなので、メス・メスの変換器をつける。これで教卓のノートパソコンと学生の前のディスプレイが同じ画面を表示する。

 問題は、ヘッドフォンとパソコンのつなぎ方だが、授業をやるときには、黒板に書くし、また、パワーポイントやビデオを見せるために、ビデオラックに移動して、そこでDVDを操作したり、またパワーポイントのスライドショーを操作しなければならない。それで、ヘッドフォンがUSB接続方式なので、USBの延長コードを利用する。実はこれが問題なのかも知れない。USBコードは延長しないのが原則で、5メートル延長コードをつけたので、ここでノイズがはいりやすくなり、認識率が低下したかも知れないので、来週はとにくか、USBコードの延長はしないでやってみようと思う。

 さて、段々学生が入ってきて、授業時間になる。こうした準備は一時間目なので、30分以上前に来てやっていたのだが、一時間目だとこういう利点がある。

 授業を始める前に、当然、前々から断ってはいたが、今日から試験的にやってみること、とにかく認識率は低いとしても、段々よくなるだろうから、我慢してもらうことを了解してもらう。そして、他の学生たちには、この試験的試みを説明し、ときどき授業がストップするがこれも我慢してもらうことを求めた。

 さて、こうしてとにかく、6年前から考えていたことを初めて行ってみたわけだが、結果は、良好とは言えなかった。何よりもまずいのは、私の話し方である。ドラゴンスピーチの現行バージョンはかなり認識率が高く、使えるものであるが、それはあくまでも、きちんとした話し方をすることが前提になっている。しかし、講義中の話は、原稿を読むわけではないし、かなり自由に話していくのが、私のやり方だ。どうしても、文法的には正しくない言い方をしたり、つまったり、「あー」「ええと」「うー」というような声が入ってしまう。そうすると、とたんに認識が悪くなり、その後はしばらく、何のことかまったくわからない文字が羅列されることになる。

 授業が終わって、正しい講義録にしようとかなり時間を書けたのだが、4分の1くらいしかできなかった。昨年、テープ起こしで講義録を再生し、ホームページにアップしていたが、それはせいぜい3時間であった。しかし、今日は2時間以上かけて4分の1だから、こちらの方が時間がかかることになる。詳しくは、どんなミス変換があったのかは、講義録に修正してから、ピックアップして紹介しようと思っているが、主な原因は、ソフトやハードではなく、「話し方」そのものであったように思われる。

 とにかく話し方をコンピュータ向けにしないと、認識率は向上しそうにない。それは授業そのものを聞きやすくするのに、効果があるるか、あるいは逆効果であるのかは、わからない。

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2006年5月25日 (木)

情報化と大学教育(1)

  2006年5月25日の毎日新聞フェブ版によると「東大、京都大、早大、慶大など11大学が参加する「大学CIOフォーラム」の第2回が24日、東京都内で開かれ、「大学革新のためのIT戦略」の提言をまとめた。」ということだそうだ。大学が大きな情報産業の中に位置づけられるようになり、孤立した機関ではありえなくなっているし、また、ますますそうなるだろう。研究はずっと前から大学の外に向かって発せられることが重点であったが、教育は内部的に行われるものだった。しかし、教育は外に対しても発せられる情報のひとつになっていく。そうした流れを作れる大学とそうでない大学との差が開いていくのだろう。
 教育が大学の外にも持ち出されるとなると、必ず、「では大学の意味はどこにあるの」」かという問いが発せられる。しかし、これはスポーツのメディア報道、特にテレビ放映のときに行われた議論と多少似たところがあるように思われる。テレビ中継したら、わざわざ見に行かなくてもいいのだから、スポーツ観戦の客は減ってしまうのではないかという危惧があった。しかし、実際にはテレビ放映されるスポーツほど、観客は多いのではないだろうか。
 ただ、大学の場合が同じである保障はない。つまり、スポーツや音楽会などは、「生の魅力」があるが、大学の教室での授業が「生の魅力」を実感させることができるかどうか。もし、外に発信される教育内容と、教室の生の授業が対して違わなければ、わざわざ大学に行く必要は感じないだろう。スポーツ観戦などよりは、はるかに一度に多額の費用が必要なのだから。大学で教育活動に従事している者は、このことを真剣に考える必要があるだろう。
 では、大学の授業には「生の魅力」がないのだろうか。
 私はあると思いたい。そして、それはやはり、外に出された「情報」では持ち得ないものでなければならない。それはおそらく、教員と学生による真剣勝負の議論だろう。その議論の中で獲得された知識が吟味され、新たな論理を獲得していく実感があれば、外に出された情報は、ますます「生の魅力」を喚起し、大学に人を引き寄せることができると考えられる。しかし、そのためには、大学教師の相当な覚悟と努力が必要であることは間違いない。そして、現在のインターネットと大学の教育活動の融合が進んでいくことは疑いないところだ。私もできるだけ、そうした視野で教育活動を行っていきたい。

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2006年5月21日 (日)

聴覚障害学生への援助の試み(3)

 どういうシステムでやろうとしているかというと、まずノートパソコンに音声認識ソフトをいれて、講義の声を文字化する。それを学生が見るわけだが、問題はいくつかある。

 まず、講義者(私)とパソコンと学生の距離の問題だ。講義するときには、当然板書したりするわけだから歩き回る。そのために、パソコンまである程度の距離が必要だ。しかし、通常この種のソフトについているヘッドフォンマイクはコードが短い。それで、USB式のマイクなので、USB延長コードを注文した。実はこの点はまだ試していない。つまり、コードが長くなると、それだけ音質の劣化が起きるわけだが、劣化の程度がまだわからない。それから、大学の教室はもちろん、講義者と聴講学生の椅子の間が比較的広い。だから、一番前に座ってもらっても、ある程度の距離がある。そこで、学生はディスプレイコードでつなげた別のディスプレイで見ることにし、援助が必要な学生が複数いる場合には、ディスプレイハブを利用して、数台のディスプレイに表示することを考えている。

 そして、問題はどの程度の認識率が保障されるかだが、当初、話していくとどんどん変換されていくわけだが、それと同時進行で訂正することを考えた。つまり、ノートパソコンに変換を訂正していく人をボランティアでついてもらおうと思ったわけだ。そういうことが可能かどうか、実際にやってみたのだが、実はそれは不可能だということがわかった。つまり、音声認識ソフトを使った人はわかると思うが、ワープロの変換のように、変換している部分にカーソルがついていく。しかし、訂正するためには、もちろん、訂正する部分にカーソルを移動させる必要があるのだが、どんどん話しているわけだから、常に一番先頭にカーソルはあるわけで、訂正したい部分に移動できないのである。

 なんとかできないかと思って、ソフトの会社に電話してみた。結論としてはそれはできないということだった。また、そんな質問を受けたこともないということだった。したがって、そうしたリアルタイムの変換と訂正を同時に進行させることは、少なくとも今のソフトではできないわけだ。結局、認識率を向上させるための様々な方法をもちいて、訂正があまり必要ないような話し方をする以外にはないということがわかった。

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2006年5月19日 (金)

聴覚障害学生援助の試み(2)

 選択しているソフトはドラゴンスピーチというソフトだ。このプロフェッショナルバージョンはパソコンソフトとしては極めて高価だが、確かに変換率は極めて高いように思われる。それで、このソフトを使って再び試してみることにした。学科に交渉して、ソフトを買ってもらう。こういうことに、学科は理解があるので、すんなりといく。昨年の暮れのことだ。

 ドラゴンスピーチのプロフェッショナル版は、スタンダード版と違うのは、認識率向上のための特別のプログラムがついていることと、英語、それもアメリカ、イギリス、オーストラリアその他の英語圏の違いを考慮した、英語音声認識ソフトがついている。後者はほとんどの日本人はいらないのではないだろうか。とすれば、英語音声認識は落として、認識率向上プログラムだけをつけて、スタンダードより2万程度高価なの製品にしてほしいと思ったものだ。なにしろ、スタンダード版より、8万程度高い。

 それはいいとして、高価なこともあるが、さすがに、認識率は高いと思った。それで、実用化してみようかと思ったのだが、そこにパソコンのレベルという問題が生じた。もちろん、教室で使用するのだからノートパソコンでなければならない。試しに、今使用している軽いノートパソコンにインストールしてみたところ、スペック不足で、インストールすらできない。一応windows XP  professional のパソコンである。メモリとか、CPUなど品塾であることはわかっていたが、ドラゴンスピーチインストールを試みてみたところ、スペック不足でインストールできないとメッセージが出たときにはがっくりきた。そこで、ちゃんとしたパソコンを購入してもらおうと思ったのだが、年度末で、予算が既に決定済、早期に開始することはあきらめることにした。

 そして、年度が改まったので、早速、学科に提起、そこは、理解のある人たちだから、承認、ハイエンドノートパソコンを購入することにした。とにかく、ソフトの説明書に機能の高いパソコンでないと十分な効果が得られないと書いてあるからは、機能の高い、速いパソコンを探す。結局、自作パソコンにすることにして、部品等を買い揃え、準備室の技術をもった人に依頼、結局、部品を店の人が間違えるなどして、交換を経て組み立てをしてもらったために、かなり日数がたってしまい、やっとできて、ソフトインストール、認識率向上のための努力をしたあと、いよいよ実験に入った。

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2006年5月18日 (木)

聴覚障害学生への援助の試み(1)

 近年障害をもった人たちが大学に入学してくる。とてもいいことだ。大学経営層は、それが仕方のない負担だと考えているふしがある。つまり、障害者を差別する大学という悪評から免れるためには、仕方ない「税」みたいなものというわけだ。しかし、そうだろうか。

 障害者を受けいれることは、とても大学のためになるのだ。私の大学では、前に全盲の学生を受けいれた。これは、当該学部の教員のほとんどが反対したらしいのだが、熱心な教授が自分が責任をもつからということで、説得した結果、受験が可能となり、そして合格したのだ。受けいれた以上、大学としては、いろいろな援助をしたし、誠実に対応したと思う。しかし、それだけではなく、大学がとても住みやすくなった。それまでは、学内で自転車をたくさんの人が乗っていたのだが、とにかく乱雑にとめていて、特に、授業で校舎に乗り付けるわけだから、入り口付近に無造作に駐輪していた。そのために入り口は自転車だらけで、通るのが一苦労という感じになっていた。しかし、それは全盲の学生にとってはとても危険な状態だ。それで、ある面で仕方なく、入り口に自転車を停めると、全盲の学生にとても危ないので、やめるように呼びかけ、駐輪場をしっかりと作って管理した。さすがに、まじめな学生たちだったので、入り口に駐輪するひとたちはいなくなった。それまでは、校舎に入るのが大変だったのだが、すっかり整理され、安全になった。全盲の学生が入学しなければ、いまだに、入り口付近に自転車があふれていたかも知れない。

 このような明らかな効用を生むこともあるのだ。これはとても大切なことだと思う。障害者に住みよい環境は、健常者にとっても住みよいのは当たり前のことだろう。つまり、障害者が存在することによって、環境への配慮が生じ、それが全員にとってよい環境形成に資することになるのだ。だから単なる同情というようなレベルではなく、障害者の学ぶ権利を実際に保障することは、とても教育条件の整備にとって好ましいことなのだということを強く主張したい。

 さて、私は今聴覚障害の学生のために、なんとか、授業を理解するのにいい方法を実現したいと努力している。しかし、なかなかうまくいかない。試行錯誤をここで報告しながら、よりよいやり方を探っていきたいと思っている。ぜひ、何かいい方法があったら教えて欲しいと思います。

 さて、その第一回として、これまでのことを述べよう。

 2000年くらいに最初の聴覚障害の学生が入学した。実は、入学試験を受けるときに、そのことはわかっていたのだが、合格したあと、そのことを教員たちはすっかり忘れてしまっていた。学生が入学式のときに、自分で手話通訳を頼んでいたことで、それをその学生の入学を思い出させたのだった。実に大学人として反省すべきことであった。

 しかし、その時点で私はまだ知らなかった。入学式などは、大々的にやるので、平教員は出席しないからである。私が知ったのは、最初の授業の終わりにその学生が紙に書いた説明書を私に渡したからである。そこには、私は耳が聞こえないので、そのことを考慮して授業をしてほしいということが書いてあった。実は、私が人生で初めて大学で授業をさせてもらった非常勤の大学で、聴覚障害の学生が聴講していたことがあった。そこでは手話通訳がすべての授業に入って、講義理解の援助をしていた。私に対して、特別なマイクを使用してほしいという申し出もあったので、一年間2つのマイクを手にもって授業をしたものだ。

 そういう経験があったので、直ちに私は手話サークルに駆け込んだ。すると、確かにそのサークルは聴覚障害の学生が入学した事実をつかんでいた人がいたが、サークルとして体制をとっていたわけではなかった。そこで学生課に駆け込み、とにかく対策を依頼した。そうして、サークルや学生課、そして教務課など、関係者が徐々に対応を初め、当初非常に不満であった学生も少しずつ、大学の対応を認めるようになった。

 さて、授業といえば、残念ながら、手話サークルでは、それまでそうした経験がなかったので、大学の授業を通訳できるほどの手話通訳力がなかったので、ノートテークをすることになった。しかし、それはかなり大変そうだったので、ノートテークを認めつつ、音声認識ソフトを使用して、講義をパソコン上でリアルタイムでテキスト化できないかと、大学に高価なパソコンとソフトを購入することを依頼し、認めてもらったので、試してみた。しかし、結果は散々で、とても使い物にならない代物だった。まだまだ、当時のパソコンの能力やソフトのレベルでは、講義を音声認識することは無理だったのだ。

 それで私としては、講義を録音し、それを起こして、ホームページ上に掲載することにした。それはいまでも掲載されている。また、2005年に入学した学生もいるので、2005年も一年間同じことをやった。

 これは、またまた、通常の学生たちにとってもいい効果をもたらしたと思う。つまり、講義内容が、ほぼその日のうちに、ホームページ上に掲載されるのだから、講義であいまいにしか理解できなかったところ、誤解しているかも知れないところを正確に確認することができるのだ。アメリカやカナダの大学では、かなり当たり前に行われていることだが、日本の大学では、極めて珍しい例だろう。どのくらい学生に利用されたかどうかは、わからないが、私自身も、自分の声が曖昧な部分などの確認ができて、いい訓練になったと思っている。

 さて、それで、また音声認識ソフトを試してみようかと思った。さすがに、毎回録音のおこしをやることはきついし、人数も増えてきたから、いくつもの講義を起こさなければならなくなる。それで、再び挑戦したわけだ。次回から、その顛末を、まだ、実は始めたばかりなので、リアルタイム報告とともに、報告していきたい。

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2006年5月16日 (火)

大学について考えること(1)

 大学全入時代を迎えていることはよく知られている。さすがの保守的な大学もさまざまな改革に乗り出している。しかし、きっかけが少子化という「災難のごとき」事態?であるために、将来を見越して、人々のための改革はどんなものなのか、なかなか見えて来ない。だから、行き当たりばったりのものが多い。

 しかし実際には大学が本当に変わるチャンスであり、こんなチャンスはまたとないのかも知れない。社会が大きく変化していく中で大学だけがそのままでいられるはずがないのだから。少子化といっても、実は高齢者という学びたい人々がたくさんいる。若者は実利的な意識で大学に来るが、学びの場としての大学は、やはり、「学ぶこと自体が目的」であるような人たちの集まりでありたい。デンマークには、フォルケホイスコレという民衆のための全寮制の学校がある。卒業したことによる「資格」は何ら付与されない。その代わり、学びたいから学ぶという人たちがやってくる。しかも生活を共にしながら、数カ月を学ぶ。その内容は、学問的なものから、趣味的なものまで、実に様々だ。昔は大学の代わりのような教育施設だったが、高校や大学教育が充実してくるにつれて、少なくなってきたが、特色ある教育をする形で、今でもたくさん残っている。

 もちろん、これから社会に出て行く人たちにとっては、実利的な目的で大学で学ぶことは非難されるようなものではないだろう。しかし、そこに多くの「学びたいから学ぶ」人たちが存在していることによって、学びの姿は大きく変わるに違いない。

 しかし、ほとんどの日本の大学では、教育スタイル、あるいはカリキュラムが、18歳から22歳の日本の青年達が学ぶという前提で構成されている。そのために、その条件とは違う人たちが学びのためにやってくると、いろいろな困難にぶつかり、中には辞めていく者もいる。そうした条件が、大学での教育、学びにとって、絶対に必要な要素なら仕方ないだろうが、本当にそれが「大学教育」にとって必要なものなのか多いに疑問なものが少なくないのだ。例えば、体育が必修になっている大学がたくさんある。しかし、これは障害をもった人たちにとってはやっかいなものだ。もちろん、大学が障害に応じた体育の授業をやってくれれば問題はないし、また、健康増進にとって好ましいのだろうが、それはかなり難しいことが多い。また、体育は高齢者にとっても大きなハードルになるだろう。

 英語が必修であるというのも、同じように機能することがたくさんある。日本への留学生はアジアからが多いが、必ずしもすべてのアジアの国が英語教育をしっかりやっているわけではない。留学生はたいてい「日本語能力」を証明して入学が認められるから、なんとか授業にはついていけるが、逆に英語がまったくだめで、進級できない例がけっこうあるのだ。大学に入ると、ほとんどの学生は英語力が落ちると言われて久しい。これは、大学教育が英語を必要としないからだ。教員たちは、「英語は必要」と口ではいうが、実際に自分の授業の中で英語を必要とさせている場合はほとんどない。(もちろん英語が専門である領域では違うが。)単に必修である英語の単位を取るために、大学教育に不可欠とは言えない英語の授業をやらされているという感じではないだろうか。

 大学自体が今後、その存在形態が大きく変わっていくだろう。

 具体的に少しずつここで考えていきたい。

 

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